太田述正コラム#12267(2021.9.15)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その28)>(2021.12.8公開)

 「西日本の大名たちはポルトガル船の誘致だけに目を注いでいたわけではない。
 ・・・1577年・・・に平戸領主の松浦鎮信が暹羅(シャム)(アユタヤ、現在のタイ)の国王に書簡を出しているが、そこにはシャム国王が二度にわたって平戸に貿易船を派遣したことや、今後も毎年一隻が定期的に来航するようシャム国王に求めたことが記されていた。
 同じころに大友氏が、カンボジア国王と外交関係をもち交易を展開していた・・・。
 大名たちは自由に外交を展開できる状況にあった。・・・
 洋の東西を問わず、日本の大名たちは、・・・<自らを>”Taquanombo Rei de Firado
“(平戸の国王、隆信)<と称したり呼ばれたりしていたこもあり、>・・・国を治める「王」として諸外国から認識されていたことになる。
 <すなわち、>室町将軍の権威と権力が失墜したあと、大名たちは独立した王国の君主として独自外交を展開できたのであった。
 それが可能だったのは、外交権を一元的に掌握した政治権力が存在しなかったからである。
 ・・・信長<は>他の大名の外交に介入できなかったし、秀吉段階においても同様である。・・・

⇒信長は全国統一を果たしていなかったのですから、彼に言及するのはおかしいでしょう。(太田)

 <だからこそ、>秀吉<が出した>バテレン追放令・・・に従う大名もいたが、無視した大名たちも少なからずいた<わけ>・・・である。・・・

⇒秀吉には、バテレン追放令・・それが外交に係る法令なのかどうかはともかくとして・・を厳格に実施する意思がなかった、というのが通説である(典拠省略)以上、これは、秀吉が外交権を一元的には掌握していなかったという主張を裏付ける事例にはなりえないでしょう。(太田)

 では、・・・家康の段階ではどうか。・・・
 1609年に発布された大船保有禁止令<(注52)>や、1612年のキリスト教禁令<は>、西国大名の海外貿易を封殺する効果をもたらし・・・ている。・・・

 (注52)「大船建造の禁令が制定されたのは、江戸幕府が創設されて間もない・・・1609年・・・9月<(旧暦。以下同じ)>であり、将軍は第2代将軍・徳川秀忠(ただし、実質的に計画したのは初代将軍で当時は大御所の地位にあった徳川家康)である。
 この禁令は秀忠側の触状に家康側が添状を付けて補完する形で2度発令されて西国大名に向けられたものであり、500石(こく)積み以上の軍船と商船を没収し、水軍力を制限した。
 ただし、対象は沿岸航行を基本とする和船についてであり、軍船に転用可能な商船も対象としていたが、一方500石以上の船格であっても外洋航行を前提とする朱印船は除外されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%B9%E5%BB%BA%E9%80%A0%E3%81%AE%E7%A6%81 
 「さらに35年・・・には武家諸法度を改定して、諸大名の500石以上の船の所有禁止を法文化した。・・・しかし38年、荷船(商売船)についてはこの禁令から解除され、以後江戸時代を通じて廻船による活発な海運活動が展開された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%88%B9%E5%BB%BA%E9%80%A0%E3%81%AE%E7%A6%81-91527

 朱印船<(注53)>は必ず長崎から出航し、長崎に帰港しなければならなかったというから、海外通交には大きな制約がかけられるようになっていった。

 (注53)「家康は・・・1601年以降、安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム、パタニなどの東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立し、1604年に朱印船制度を実施した。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。・・・
 朱印船貿易家<には、>商人・・・大名・・・武士・・・明人・・・欧州人<があった。>・・・
 朱印船として用いられた船は、初期には中国式のジャンク船が多数であった。後には末次平蔵の末次船や荒木宗太郎の荒木船に代表されるジャンク船にガレオン船の技術やデザインを融合させた独自の帆船が登場し、各地で製造され運用されることとなる。
 それらの船のサイズは大抵500~750tであり、乗組員はおおよそ200人であった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%8D%B0%E8%88%B9
 「パタニ王国・・・は、14世紀から19世紀にかけてマレー半島に存在したマレー人王朝。マレー系王朝のなかでもいち早くイスラーム化し、マレー半島のマレー系王朝の中で一番歴史が古い。その領土は、現在のタイ王国パッターニー県を中心に展開した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%8B%E7%8E%8B%E5%9B%BD

⇒「注52」、「注53」、を踏まえれば、このくだりの平川の主張、全く説得力がありません。(太田)

 統一政権が外交権を掌握しつつある過程がよくわかる。」(245~249)

⇒あらゆる意味で、意味不明な一文です。
 唐入り出兵は、ある意味、究極の外交ですが、秀吉による出兵命令を拒否できる大名がいたか、で、話は終わりでしょう。(太田)

(続く)