太田述正コラム#12273(2021.9.18)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その1)>(2021.12.11公開)
1 始めに
家康の少年期~壮年期を飛ばした形ですが、今度は表記をシリーズで取り上げ、私のコメントを付します。
なお、三鬼清一郎は、既に何度か太田コラムに登場済みです(コラム#12122、12103)。
2 三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む
「家康が、<わずか2年で>将軍職を秀忠に譲った事情については、徳川家によってこの地位を独占する意図があったことは明白であるが、そのなかで家康は支配権を保つための準備を着々と進めていた。
家康は、将軍職を秀忠に譲るに際して、すべての官職や地位を手放したわけではない。
源氏長者と奨学院別当を帯びたままであった。
これが大御所として国家主権を行使しうる根拠となっている。・・・
足守藩は、岡山市の北西部に陣屋を構えた2万5千国の大名で、藩祖の木下家定<(注1)>は秀吉の正室ねい(のちの高台院)の実兄にあたる。
(注1)1543~1608年。「初め杉原孫兵衛を名乗っていたが、妹おね(高台院、北政所)が、木下藤吉郎(後の秀吉)の妻となったことから、秀吉の立身に従ってその家人となり、義弟の姓である木下を名乗った。・・・
1600年・・・の関ヶ原の戦いでは東軍・西軍のどちらにも与せずに中立を保った。家定は大坂城を出て、大炊御門近くの京都新城で妹の高台院(北政所)の警護を務めていたが、本戦に西軍が敗れた後の9月16日、大津城の戦いから戻った立花宗茂が2千の兵を率いて京に入り、三条御幸町に陣をしいた。宗茂は使いを出して、「関ヶ原の役はご子息の秀秋が約束を破って東軍に属したがために石田三成は敗北したと聞く。貴殿が太閤の恩を忘れず二心なしというならば、私の兵と共に大坂城に籠城して、秀頼様に忠節をつくすべきだ」と誘ったが、家定は「大政所を守護するのみである。大坂城籠城については今の状況では判断できない。改めて相談しよう」と断っている。
徳川家康は、要衝の姫路を娘婿の池田輝政に与えるべく、・・・1601年<、>・・・姫路城主2万5000石・・・<であった家定を>備中国足守(2万5000石)に左遷した。しかし家定は領国には下らず、京に住んで出家した。
・・・1604年・・・7月2日、二位法印に叙された。・・・
没後、高台院が分封の約束を破り、遺領を勝俊にすべて与えたために、勝俊・利房兄弟で遺領が争われて、所領没収の憂き目に遭ったものの、大坂の陣の戦後に利房が領を復して足守藩となした。また三男延俊も豊後国日出藩を開いたが、両藩は廃藩置県まで継続した。ただし五男秀秋の岡山藩は無嗣断絶となっている。・・・
墓所<は、>京都府建仁寺塔中常光院、高台寺・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%AE%B6%E5%AE%9A
立花宗茂(1567~1643年)は、「大坂城に退いた後、・・・城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが・・・、輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げた<、が、>・・・改易<。しかし、その後、>・・・旧領を回復<。>・・・改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
⇒後陽成天皇が、秀吉没後、秀吉の姉の日秀だけでなく、秀吉の義兄の家定にも、二位法印に叙して目をかけていることは注目されます。
また、立花宗茂については、機会があれば、改めて取り上げたいと思っていますが、豊後大友氏の武将としてキャリアをスタートした彼にどうしてキリシタンがらみの事績がないのか、疑問に思ったところ、実家のでも養家のものでもない「祇園守り(注2)を家紋とするに至った」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/tati_mon.pdf
背景に、祇園社の本家である京都の八坂神社では、素戔嗚尊等を祀っていたところにやがて牛頭天王も祀られるようになり、更にこの両者が混線して祇園天王・・祇園は仏教由来の言葉・・と呼ばれるようになったが、キリシタン禁制が行われるようになってからは、キリシタンの天主を祇園の天王にカムフラージュしたらしいことがあり、池田家や立花家が用いた紋は、キリシタンが多く用いるアドリウスの十字架が入ったものである(上掲)、という説の存在を知りました。(太田)
(注2)この祇園守<り>
https://www.touken-world.jp/tips/30587/
は、それまで宗茂が用いてきたところの、豊後大友家の家紋である杏葉紋(ぎょうようもん)・・但と併用されたもの。
http://www.tachibana-museum.jp/blog/?p=222
そ<の藩の>『木下家文書』・・・によれば、関白宣下を受けた秀次は、従二位から正二位に昇進し、牛車・兵仗で宮中出入りを許されたが、同時に豊氏長者の宣下を受けている。
豊氏長者の宣下は、このときが最初である。
<1585>年7月11日に秀吉は、近衛前久の猶子となって藤原姓を称して関白宣下を受け、従二位から従一位に昇進し、牛車・兵仗の特権などを得ているが、豊氏長者の宣下は受けていない。
秀吉が豊臣に改姓する勅許が出たのは同年9月9日である。」(20~21)
(続く)