太田述正コラム#12275(2021.9.19)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その2)>(2021.12.12公開)

 「 コラム 沖浦和光<(注3)>『陰陽師の原像–民衆文化の辺界を歩く–』<より>

 (注3)おきうらかずてる(1927~2015年)。東大文(アメリカ文学)卒、「東大時代は日本共産党員<で、>・・・安東仁兵衛とともに学生運動の指導者として活躍する。・・・1961年桃山学院大学専任講師となり、のち助教授、1969年教授。1973年イギリス留学後、インドに立ち寄り、以降アフリカ、東南アジアを頻繁に視察研究する。当初は脱亜入欧思想に傾倒し、40代までに書いた論文の3分の2は西洋の歴史と文化であったが、イギリス留学後の非西洋諸国訪問と、高橋貞樹の著書『特殊部落一千年史』(1924)との出合いが思想的転機となり、それまでの西洋中心の一元的な歴史進歩史観を改めるに至った。1982年、1986年桃山学院大学学長。1997年退任。
 英文学の論文をいくつか書いていたが、再度マルクス的民衆論に立ち返り、被差別民と被差別部落の研究に移行する。・・・天皇朝鮮起源説の急先鋒<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E6%B5%A6%E5%92%8C%E5%85%89
 
 徳川家康は、・・・1603<年>2月に将軍宣下の儀式を挙げた際、陰陽道<(注4)>の神々に祈願し誓いを立てている。・・・

 (注4)室町時代に入ると本来下級貴族の家柄であった<ところの、安倍晴明に始まる>安倍氏の嫡流は他の一族を圧倒して公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏嫡流の土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
 幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家幸徳井家を再興させて諸国陰陽師を支配させようとした。やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立した。江戸時代には、陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着したが、その活動は、だましものと扱われた者も非常に多く、後の占い禁止につながるものである。それらを声聞師とよび、士農工商に該当しない、身分の低い賎民として扱われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E9%81%93
 「観阿弥・世阿弥、・・・金春禅竹<らを輩出した>・・・声聞師<は、>・・・江戸時代にはいると、賤民化し、非人、猿飼、願人坊主(願人)等とほぼ一体化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E%E5%B8%AB

 <他方、>豊臣秀吉は、彼らを「奉公もせず物作らず」という浮浪人とみなし・・・「陰陽師狩り」を行った<(注5)>・・・。・・・

 (注5)「その理由は定かではないのですが、「占いや予言によって人心を惑わす可能性があるから」というものや、当時の陰陽寮の責任者であった「土御門久脩」がなんらかの不始末をしたからという説があります。中には、秀頼の実の父は秀吉ではなく、陰陽師などの呪術師だったからという奇抜な説すらあるのです。
 土御門久脩の不始末についても、息子の秀頼を呪詛したからというものや、徳川の戦勝祈願の呪術を使ったというもの、有力なものとしては豊臣秀次を秀吉が切腹させたときに、秀次よりだったことで土御門久脩が巻き込まれたという説などがあります。
 どちらにせよ、土御門久脩は「流刑」とされ、京都から福井へと送られて、「100名以上の陰陽師が荒地開墾の名目で辺境に追いやられました」。さらに、当時すでに陰陽道のシンボルとなっていた安倍晴明ゆかりの施設や書類などを「全て破棄」してしまったのです。」
https://www.el-aura.com/onmyodou20160524/2/
 つちみかどひさなが(1560~1625年)。「1582年・・・、織田信長の推挙により「公家成り」を果たし、以後、土御門家は地下から堂上公家となる(江戸時代に「半家」とされた堂上公家)。同年、次の閏月を天正11年(1583年)閏1月とするべきだとする陰陽寮が作成した京暦と、それとは異なる天正10年(1582年)閏12月とするべきだという伊豆国の三嶋大社が作成した三島暦とで改暦問題が発生した。久脩は信長に呼び出されて安土城に向かい、論争をしたが決着は付かなかった。しかし、信長は三島暦にするように朝廷に働きかけを行っている。公家衆は無論京暦を支持したのであるが、信長は6月1日に上洛すると再びこの話を持ち出している。ところが、翌日に本能寺の変が発生して信長が自刃したためにこの話は立ち消えとなった。
 久脩は・・・1595年・・・に秀吉の怒りを買ってしまい、多数の陰陽師とともに尾張国に配流された。これは豊臣秀次の事件に連座したものといわれている。
 ・・・1600年・・・関ヶ原の戦いののちの11月、勅命により再び上洛。・・・徳川家康に陰陽道宗家と認められ、183石6斗の家禄を与えられた。また、公家昵懇衆として家康に仕えた。
 徳川幕府では家康、秀忠、家光と徳川家三代の将軍宣下に伴う、また後陽成天皇、後水尾天皇の即位に伴う天曹地府祭を執行している<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E4%B9%85%E8%84%A9
 秀頼呪詛説の論文:木場明志「太閤秀吉と陰陽道闕職」(大谷學報 第64巻第4号-94)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjmgdGd6PjyAhVcL6YKHW27A7gQFnoECBcQAQ&url=https%3A%2F%2Fotani.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D1802%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw3j9MdaH18YZwM0ibDjrsiH

⇒陰陽道に対する姿勢一つとっても、信長/秀吉は近代人、家康は前近代人、と見なしたくなります。(太田)

 神道国教化政策を推進する明治維新政府は、陰陽道・修験道(山伏)など多くの民間宗教を禁止した。
 仏教さえも廃仏毀釈の名のもとに迫害され、多くの仏像が破壊された。・・・」(22~23)

(続く)