太田述正コラム#12277(2021.9.20)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その3)>(2021.12.13公開)

 「<初期>の幕府は、領知安堵の判物(知行地を保証する文書。花押が据えられている)や朱印状・黒印状(墨の印判が捺された文書)をほとんど発給していない。
 西国大名は、自己の所領が保証されていないという不安定な状態に追いやられたのである。
 それゆえ彼らは、幕府が命じる過酷な軍役動員や普請役の賦課を必死の念で果たすことで忠誠心を披瀝し、将来における所領の安堵に希望を繋いだのである。
 なお、諸大名に対する領知宛行状は、大坂の陣の論功行賞として<、いわゆる元和偃武
https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E5%92%8C%E5%81%83%E6%AD%A6-60979
後の>元和期に一斉に発給された。
 これは「元和印知」と呼ばれている。<(注6)>

 (注6)元和3(1617年)。
 「関ケ原の後も・・・封建的知行体系の頂点・・・の地位<は、>・・・豊臣秀頼・・・に<よって>」潜在的に保有されていた。家康の征夷大将軍就任や後水尾天皇の擁立はこの問題をのりこえる手段であったし、豊臣家を滅亡させなければおさまらなかったのもこのためである。大坂の陣に、全国のほとんどすべての大名は徳川氏の指揮下に結集したが、その内実をみると譜代を中心とした東国諸大名は秀忠からの指示により、秀忠に率いられて出陣し、西国の外様大名は家康の命令によって出動している。封建的知行体系は完成された1つの頂点をもつにいたっていなかったというべきであおる。秀忠による領知朱印状の発給は、そのために上洛の手続きをふまねばならなかったとはいえ、西国の外様大名を包摂しており、この問題に一応の結着をつけたものといえる。・・・<但し、>秀忠による領知朱印状の発給は家光・家綱のように同時いっせいには行われておらず、おおむね東国には上洛以前に、西国には上洛以後に分かれている・・・。」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/73119/1/KJ00004170898.pdf 

⇒ここの記述と「注6」を取敢えずは額面通り受け止めるとして、日本人とはなんと法を順守する人々であることよ、と思います。(太田)

 1607<年>に家康は、駿府城を御座所とする意思を明らかにし、築城工事は天下普請として開始された。・・・
 具体的な指示内容は・・・畿内5ヶ国と丹波・備中・近江・伊勢・美濃を合わせた10ヶ国に対し、大名・給人の知行地も蔵入地(くらいりち)(幕府の直轄領)も寺社領も同様に、500石の知行高について1人の割合で人夫を差し出すこと(五百石夫)である。・・・
 高木昭作<(注7)>・・・はここから国奉行制を概念化し、その歴史的意義を明らかにした。・・・

 (注7)1936~2011年。東大文(国史)卒、同大院博士課程中退、同大史料編纂所助手、助教授、所長、同大博士(文学)、帯広大谷短期大学長、放送大教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%98%AD%E4%BD%9C

 国奉行<(注8)>とは・・・畿内・近国の11ヶ国に配置され、江戸や駿府から発せられる法令を伝達し、一国規模で直轄地や給地の農政などを管轄し、普請人足の徴発や特産品の収集・献上に関わるほか、国内に散在する幕府代官所(天領)を預かり、国や郡を基準にした国絵図・郷帳の作成に携わるなど、その業務は多岐にわたっている。」(30~31、33)

 (注8)「江戸初期に置かれた幕府の職制。・・・私領と幕府領が錯綜する近畿地方を中心とした11ヵ国に置かれ,一国単位で広域的に行政を担当した。守護代の権限を郡ごとに分掌する戦国期の郡代の任務を継承するものとして設置され,交通・分業を掌握し,普請や戦争に必要な要員や物資を動員するのが主たる任務であった。こうした任務が不要となった17世紀後半になると,この制度は京都所司代,大坂城代を中心とした広域行政機構に解消し,国奉行の呼び名も消滅した。・・・
 一部の大名領を除く関東では関東郡代が公家領や旗本領をも含めた広域的支配を行った。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%A5%89%E8%A1%8C-484604
 「国奉行の例には片桐且元(摂津国、河内国、和泉国)、大久保長安(大和国、美濃国)、小堀遠州(備中国)がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%A5%89%E8%A1%8C

⇒徳川幕府は、中後期においても、京都所司代、大坂城代、関東郡代のほか、「公家,僧侶,神官,寺社領の人民,職人,えた,非人などに対してそれぞれの身分に応じた別系統の支配が行われた」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%A5%89%E8%A1%8C-484604
ところであり、このほか、大名領が多数あったわけであり、まことにもって複雑な統治制度を構築したものです。(太田)

(続く)