太田述正コラム#12279(2021.9.21)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その4)>(2021.12.14公開)
「ここで明らかにされた事柄は、幕藩体制社会の成立期において、国や郡を基準とした畿内・近国の支配が行われたという事実である。
これは、古代以来の伝統的な国家統治の方式に従ったもので、ここでは、すべてが主従関係の論理で律せられる近世社会の秩序は影を潜めている。・・・
⇒藤田達生の「預治思想」に代わって、三鬼は、「古代以来の伝統的な国家統治の方式」という常識的な言葉を使っていますね。
私としては、徳川幕府が新しく始めた「公家,僧侶,神官,寺社領の人民,職人,えた,非人などに対してそれぞれの身分に応じた別系統の支配が行われた」の方にこそ関心があるのですが、ネット上で、より詳しい解説的な記事をすぐ見つけることができませんでした。
いずれにせよ、「<徳川>幕府の行政機構は,一、幕初から寛永10年代までの”庄屋仕立て”の段階,二、寛永10年代より安政開港までの老中以下の行政機構のととのっていた段階,三、開港および幕末政情不安に対応して外国奉行以下の新役職がつぎつぎと追加された時代,の三段階に分けることができる。・・・<二>の幕府の役職構成は,幕藩体制下平和が致来して軍備の必要がうすれ,かつ鎖国体制が確立した段階に成立したものであるせいか,軍政のポストと対外関係のポストが欠けているのが大き特徴である。軍事・外交のポストが追加設置されるのは安政の開港以降のことである。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjwlvz8-f3yAhUFx2EKHfswAk4QFnoECBoQAQ&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D117%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0IMrnsMIgCOZiwrdInINNV
という、徳川幕府の統治機構のユニークさを我々は忘れないようにしたいものです。(太田)
御三家を比較すると、尾張藩と紀州藩は石高に僅かの差があるが、極位極官は同じで、付家老<(注9)>は二名おかれた。
(注9)「江戸時代、幕府が親藩に対し、また本藩が支藩に対し、施政を監督・指導するため遣わした家老。代表的なのは御三家の付家老で、尾張家に付けられた成瀬氏(尾張犬山、3万5000石)、竹腰(たけのこし)氏(美濃今尾、3万石)、紀州家に付けられた安藤氏(紀伊田辺、3万8800石余)、水野氏(紀伊新宮、3万5000石余)、水戸家に付けられた中山氏(常陸松岡、2万5000石)の5氏がある。代々の藩政を統轄し、格別な礼遇を与えられていた。・・・御三卿(田安、一橋、清水)の家老も幕府から付けられたが、これは御三家の世襲された付家老とは異なり、幕臣の一時的出向であった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%98%E5%AE%B6%E8%80%81-571514
しかし水戸藩は、石高が約半分のうえ、極位極官は一段階低く、付家老は1人であった。・・・
さらに水戸藩には、地理的に江戸に近いという事情から江戸城を防備する責任が課せられ、それゆえ、藩主は常に江戸藩邸に居住する定府(じょうふ)が義務化していた。・・・
水戸藩主は、ごく短期間に国元に帰るにも幕府の許可が必要だったのである。・・・
藩主が江戸に常住することから、水戸藩は家老を水戸と江戸とに二分して置く必要があった。
国家老(くにがろう)と江戸家老は勢力を競って反目しあったため、藩政に歪みが生じることが常であった。・・・
<水戸藩第2代藩主の徳川>光圀の事績として著名なものに『大日本史』の編纂がある。・・・
人物評価の根底に儒教精神を据え、為政者の道徳心を政治の要諦としているが、それは「『大日本史』の三代特筆」と呼ばれて<おり、以下の通りであ>る。
一、<『日本書紀』と違って、>神功皇后の即位を認めず<(注10)>、本紀に立てて<おらず、>・・・「皇妃列伝」で叙述した。
(注10)「『日本書紀』で・・・は「皇后を暗に『魏志倭人伝』にみえる女王卑弥呼に擬し<つつ、>・・・天皇に準じた扱いをしている。・・・
<なお、>《日本書紀》によると,仲哀天皇没後,応神天皇のまだ即位しない間,神功皇后が政務を執ったのを摂政とするが,摂政は天皇の在位しているときに,皇族等が天皇に代わって政治を執るのをいうことからすると,神功皇后の統治形態は摂政よりも称制に当たる。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E-81528
「称制(しょうせい)は、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。・・・日本においては、中大兄皇子(舒明天皇・斉明天皇の皇子で後の天智天皇)と鸕野讚良皇后(天智天皇の皇女・天武天皇の皇后で後の持統天皇)の2例を「称制」としているが、この他に神功皇后・飯豊皇女・阿閉皇女の計3例のケースも称制に相当すると言う考えがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%B0%E5%88%B6
⇒神功皇后の話は、ここで立ち入るのは止めておきます。(太田)
二、<『日本書紀』と違って、>大友皇子の即位を認め、本紀に立てたこと。・・・
⇒これは、三種の神器が大友皇子の下にあったことを根拠にしたのでしょうね。(すぐ下参照。)(太田)
三、南朝を正統と認め、本紀に列したこと。・・・
<但し、>後小松天皇を本紀に立て、北朝方の5天皇をその冒頭に記すことで、北朝は正統でではないが皇位に就いたという事実を認めている。<(注11)>・・・」(33~34、73、77~78)
(注11)「光圀は、天皇権威を象徴する三種の神器(鏡・玉・剣)の所在を「正統性」の根拠とし、南朝正統論を唱えた(南北朝対立の時、三種の神器は南朝にある)。 ・・・
<しかし、>儒学の正統論から見れば、・・・「長幼の序」を考慮しなければならない。北朝持明院統の後深草天皇(1243~1304)が兄で、南朝大覚寺統の後亀山天皇(1249~1305)が弟である。それゆえ、儒学の理論に従えば、「南朝正統論」が成り立てない。光圀は、南朝正統論を唱えたのは、むしろ君主への忠誠という武士思想を実践するためであり、また、儒学の理論を通して日本の歴史と文化を検討するためである。「後期水戸学」<も>、光圀の抱いたこの「和漢折衷」の矛盾を継承したように見える。・・・
光圀が『大日本史』を編纂する目的は、「皇統を正閏し、人臣を是非」する<ためな>のである。つまり、光圀は、名分秩序を正すために、「大義」という理念を『大日本史』編纂の基準とした。・・・光圀は、・・・皇権の回復を図<り、>・・・後醍醐天皇<に対する>・・・楠木正成の忠誠精神を<大義に合致した忠誠であったとして>称賛して湊川で墓碑を建立した。」(徐興慶(商兆琦翻訳)「『大日本史』の史観と「水戸学」の再構築」(『日本漢文学研究 13』収録 より)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjqwP33uo_zAhXWZt4KHf1EBcwQFnoECBAQAQ&url=https%3A%2F%2Fnishogakusha.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D2595%26file_id%3D18%26file_no%3D1&usg=AOvVaw00JPPGWsaH0XNUPuDSmDar
徐興慶(シュイ・シンチン。1956年~)は、台湾東呉東方語文系卒、九大博士(文学(国史学))、関西大文化交渉学論文博士、台湾大副教授・日本研究所所長、教授・日本研究所所長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E8%88%88%E6%85%B6
⇒光圀論は改めて取り上げる必要がありますが、光圀が日蓮主義者であったという、私の説(コラム#12170)、を補足すれば、光圀は、信長流ではなく秀吉流の日蓮主義者であったのであり、だからこそ、光圀は(秀吉流の日蓮主義者であった)後醍醐天皇/楠木正成を称揚したのだ、と、私は考えています。
すなわち、私見では、「人物評価の根底に儒教精神を据え<た>」との三鬼の光圀/『大日本史』評は誤りなのであり、そのことは、「注10」での徐興慶の、光圀/『大日本史』の理論の和漢折衷性という指摘が示唆している、と、思うのです。(太田)
(続く)