太田述正コラム#12283(2021.9.23)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(補遺)(その1)>(2021.12.16公開)

1 始めに

 「事件関係者を一斉捕縛・殺害した京都守護職松平容保を藩主とする会津藩に対する備前国岡山藩の厳重抗議」(コラム#12279)に触発され、岡山藩についても、調べておく必要がある、と、思い至りました。

2 岡山藩と日蓮主義

 秀吉は、池田恒興、ひいては池田家には、足を向けて寝られないくらいの借りがありました。↓

 「池田恒興<(1536~1584年)の>・・・母の養徳院は織田信長の乳母であり、後に信長の父の織田信秀の側室となっている。・・・
 1582年・・・6月2日、本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流し、山崎の戦いでは兵5,000を率いて右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。
 織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津国の内大坂・尼崎・兵庫において12万石を領有した。翌・・・1583年・・・の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、美濃国内にて13万石を拝領し大垣城に入り、岐阜城に<長男の>池田元助が入った。
 ・・・1584年・・・、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦した。勝利が成った際には尾張1国を約束されていたという<が、>・・・長久手(勝入塚)にて・・・戦死。・・・嫡男の元助も共に討ち死にしたため、家督は次男の輝政が相続した。・・・
 墓所<は、臨済宗の>妙心寺」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%81%92%E8%88%88
 「<その>次男<の>・・・池田輝政<(1565~1613年)は、>・・・1582年・・・6月、本能寺の変で信長が明智光秀に弑されると父兄と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、同年10月15日、秀吉が京都大徳寺で信長の葬儀を催すと、輝政は羽柴秀勝と共に棺を担いだ。・・・
 1584年・・・、小牧・長久手の戦いにおいて、父の恒興と兄の元助が討死したため、家督を相続し、美濃大垣城主13万石を領した。
 ・・・1585年・・・、同じ13万石で<今度は、美濃>岐阜城主となった。その後も紀州征伐や富山の役(佐々成政征伐)、九州平定など秀吉の主要な合戦の大半に従軍した。・・・
 1590年・・・の小田原征伐・奥州仕置には2,800の兵を率いて参加した。そのため戦後の同年9月、三河国の内、渥美・宝飯・八名・設楽4郡(東三河)において15万2,000石に加増され、吉田城主となった。また、在京の粮米として伊勢国小栗栖庄を与えられた。
 吉田城主時代は同時期に尾張に入部した豊臣秀次に付属させられたと見られており、そのため文禄の役に際しては国内守備の任務にあった秀次に近侍して吉田城に留まり東国警衛の任にあたっている。朝鮮出兵に関する任務としては、大船建造や兵糧米の名護屋城回送を命じられている。また、伏見城普請や豊臣秀保の大和多内城普請を務めた。・・・

⇒輝政は、秀吉によって秀次に付属されたわけであり、かつまた、秀次に自分の子を正室として嫁がせたのも、恐らく、秀吉の命を受けてのものだったはずです。
 その秀次が、朝鮮出兵に加わらなかったために、輝政は、九州に下ったり、朝鮮に渡ったりこそしなかったけれど、兵站面で重要な役割を果たした、と言っていいでしょう。(太田)

 ・・・1594年・・・、秀吉の仲介によって、徳川家康の愛娘・督姫を娶る。・・・
 元々秀吉は池田輝政に崇源院(秀吉の<養女上がりの>側室<である>淀殿の実妹<でやはり秀吉の養女>)を嫁がせようと家康に相談したが、家康が「浅井の娘(崇源院)を秀忠と縁組させたいので、(その代わりに)輝政には私の娘(督姫)を嫁がせる」と頼んだため、秀吉が受け入れたという・・・

⇒輝政が家康の縁戚になったのも、秀吉に命を受けてのものでした。(太田)

 1595年・・・、関白・豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若政所(秀次の正室)は例外的に助命されており、特別丁重に扱われている(秀次事件)。

⇒秀次の切腹後の妻妾子の大量殺害から肝心の正室が除かれたのは、秀吉が池田家に多大なる恩義を感じていたからでしょうが、このことは、秀次の切腹と秀次の妻妾子達の殺害、とりわけ後者、に(それを明示するわけにはいかなったけれど、秀頼の競争相手たる秀次を抹殺した上で、その道連れにした、といった低次元の理由ではないところの)、それなりの(次の東京オフ会「講演」原稿で明らかにする)理由があったことを推認させる、と、思いませんか?(太田)

 豊臣時代、輝政は<一貫して>豊臣一族に準じて遇されていた。
 <しかし、>・・・1598年・・・8月、秀吉が没すると家康に接近した。また、福島正則や加藤清正ら武断派の諸将らと共に行動し、文治派の石田三成らと対立した。

⇒どうして輝政がそうしたか、についても、次の東京オフ会「講演」原稿に譲りたいと思います。(太田)

 ・・・1599年・・・閏3月3日、武断派と文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政らと共に石田三成襲撃事件を起こした。

⇒同じく。(太田)

 ・・・1600年・・・、関ヶ原の戦いでは、前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加し、福島正則と共に功を挙げた(岐阜城の戦い)が、本戦では毛利秀元や吉川広家ら南宮山の西軍の抑えを務めており、直接の戦闘はなかった。

⇒「関ヶ原の戦いでは主に毛利氏が南宮山に陣を構えた。合戦前には浅野隊と南宮大社付近で交戦、池田隊と銃撃戦を展開していた者もいたが、吉川広家が東軍に内通していたため毛利、安国寺、長束、長宗我部は本戦に参加せずに戦は終わった。また、山内一豊、蜂須賀至鎮、有馬則頼らは当初<輝政同様、>南宮山の西軍に備えていたが家康の命により本戦に参加した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%AE%E5%B1%B1
ということなのですが、これは、家康が輝政を疑っていたからではなく、輝政の、西軍内の豊臣家恩顧の諸大名との縁の深さ、への配慮だと思います。(太田)

 ・・・1601年・・・、徳川秀忠が輝政邸を訪れたが、これは関ヶ原以後初めての外様大名の屋敷への御成であったとされる・・・。
 戦後、岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となった。・・・
 豊臣秀頼の重臣らが輝政の死を聞いて愕然として「輝政は大坂の押へなり。輝政世にあらん限りは、関東より気遣ひなく、秀頼公の御身の上無事成るべし。輝政卒去の上は大坂は急に亡さるべし」(『埋礼水』)と語ったという逸話がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF

⇒同じ豊臣氏恩顧の大大名で、輝政と行動を共にしてきたところの、福島正則や加藤清正、に対して、この種の期待が表明されることはなかったようですが、その理由についても、次の東京オフ会「講演」原稿に譲りたいと思います。(太田)

(続く)