太田述正コラム#12291(2021.9.27)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その8)>(2021.12.20公開)

 「南蛮貿易<は、>・・・マカオを中継地とするポルトガル船が中国産の生糸(白糸)を日本に運び、銀を積み出すことを基本とするもので、事実上は日明貿易を代替するものであった。<(注17)>・・・

 (注17)「日本には弥生時代には既に養蚕と絹の製法が伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたが、品質は<支那>絹にはるかに及ばず、生産は徐々に衰退していった(室町時代前期には<国内>21ヶ国でしか生産されていなかったとする記録がある)。このため日本の貴族階級は常に<支那>絹を珍重し、これが日<支>貿易の原動力となっていた。明代に日本との貿易が禁止されたが、この頃東アジアに来航したポルトガル人が日<支>間の絹貿易を仲介して巨利を得た。
 長年の戦乱などによる養蚕の衰退で、国産の蚕は専ら真綿にしか用いることができない低品質なものが大半であった。そのため、西陣や博多などの主要絹織物産地では鎖国後も高品質な<支那>絹の需要が高く、長崎には<支那>商船の来航が認められており、国内商人には糸割符が導入されていた。しかし、寛永年間から品質改良が進められ、江戸幕府は蚕種確保のため、代表的な産地であった旧結城藩を天領化し、次いで同じく天領で、より生産条件の良い陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みた。これに対して仙台藩、尾張藩、加賀藩といった大藩や、上野国や信濃国の小藩などが、幕府からの圧力にもかかわらず養蚕や絹織物産業に力を入れたため、徐々に地方においても生糸や絹織物の産地が形成された。この結果、貞享年間(1685年頃)には、初めて幕府による<支那>絹の輸入規制が行われた。8代将軍徳川吉宗は、貿易赤字是正のため、天領、諸藩を問わず全国で生産を奨励し、江戸時代中期には<支那>絹と比肩する品質にまで向上した。このため、幕末から開港後は絹が日本の重要な輸出品となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9

⇒「日本の漆器が16世紀末から17世紀にかけてヨーロッパ各地に広まってい<き、>・・・陶磁器が<支那>を代表する工芸品として英語で『china(chinaware)』とよばれるのに対し、漆器が英語で『japan』とよばれる<ようになった>こと」
https://www.teikokushoin.co.jp/journals/history_japan/pdf/003_201707/05_history_japan_003_p09_12.pdf
は、漆器の貿易量や額はともかくとして、覚えておきたいものです。(太田)

 日本人が、アジア世界とは異質の価値観をもつヨーロッパ世界を認識する契機となったのは何であろうか。
 それは、鎖国体制下にあった日本に開国を迫った列強資本主義の圧力=西欧の衝撃(ウエスタン・インパクト)で、黒船の来航に象徴される幕末期の動乱のなかで徐々に強まったと私は考えている。・・・

⇒既に、「1645年刊行の『万国総図』(注18)が庶民層も含めて人々に広まり、蘭学や天文学の研究がさかんになって以降、18世紀末の長久保赤水による『改正地球万国全図』(注19)が刊行されるなど幕末に至るまで世界図の刊行は続<いた>」(上掲)というのですから、三鬼はようやく幕末期になってから、日本国民一般が異質なヨーロッパ世界を認識するようになったと言っているに等しいところ、首を傾げざるをえません。(太田)

 (注18)「1605年<、>・・・すでに京都のアカデミアにはリッチ図が届いている。日本最初の刊行世界図は,図形をリッチ図に,地名を直接ヨーロッパ製地図に仰いだ作者不詳の《万国総図》(1645)であり,長崎で刊行されている。」
https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E4%B8%87%E5%9B%BD%E7%B7%8F%E5%9B%B3%E3%80%8B-1396280
 (注19)「原本刊行年:天明五年(1785)・・・濃厚な手彩色が施された、江戸時代における最大版世界図の一つ。長久保赤水作。本図は、イタリア人宣教師マテオリッチが中国明末に制作した巨大な木版世界図「山海輿地全図」を基に作られたものであろう。赤水の世界図は、以後地図業界に大きな影響を与え、赤水の名を記載した図が非常に多く出版された。」
http://oldmap.jp/j/oldmap/countries/412.html
 長久保赤水(1717~1801年)は、「地理学者、儒学者である。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。・・・
 農民出身であるが、遠祖は大友親頼の三男・長久保親政。現在の静岡県駿東郡長泉町を領して長久保城主となり、長久保氏を称したとされる。
 学問を好み地理学に傾注する。14歳(1730年・・・)の頃から近郷の医師で漢学者の鈴木玄淳の塾に通い、壮年期に至るまで漢学や漢詩などを学んだ。17歳(1733年・・・)には江戸に遊学、服部南郭に学んでいる。25歳(1741年・・・)の頃、鈴木玄淳ら松岡七賢人<の一員として、>水戸藩の儒学者で彰考館総裁を務めた名越南渓に師事し、朱子学・漢詩文・天文地理などの研鑽を積んだ。また、地図製作に必要な天文学については、名越南渓の紹介により渋川春海の門下で水戸藩の天文家であった小池友賢に指導を受けた。・・・
 1777年・・・赤水61歳の時、水戸藩主徳川治保の侍講となり、藩政改革のための建白書の上書などを行った。・・・
 1786年・・・、徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』の地理志の執筆も行う。・・・
 <世界地図ならぬ>1779年・・・出版<の>・・・『改正日本輿地路程全図』は、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』より42年前に出版され、明治初期までの約100年間に5版を数えた。伊能の地図はきわめて正確であったが、江戸幕府により厳重に管理されたこともあって、この赤水図が明治初年まで一般に広く使われた。沿岸部のほとんど全てを測量した伊能の地図には劣るが、20年以上に渡る考証の末、完成した地図は、出版当時としては驚異的な正確さであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E8%B5%A4%E6%B0%B4

 1612<年の>・・・岡本大八事件・・・<を>発端として<、>・・・<同>年<に>・・・<そ>の第二条<が>キリシタンを全面的に禁止する・・・(他の四ヶ条は、キリシタンとは無関係な農政に関する事項である)・・・五ヶ条の幕府法令(『御当家令条』)・・・<が>発布された・・・。・・・
 この法令には将軍秀忠の朱印が押捺されているから、形式上は秀忠の発給文書である。
 
 一、伴天連門徒御制禁なり、若し違背の輩あらば、忽ち其の科遁るべからざる事」(105~108)

(続く)