太田述正コラム#12295(2021.9.29)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その10)>(2021.12.22公開)

 「1613<年>12月、幕府は大久保忠隣<(注22)>(ただちか)(相模小田原城主)をキリシタン総奉行に任命し、宣教師や信徒を追放するよう指示した。

 (注22)1553~1628年。「松平氏(徳川氏)の重臣・大久保忠世の長男<で、>・・・大久保忠教<(ただたか)(彦左衛門)>の甥にあたる<。この三名とも日蓮宗徒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E4%B8%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E6%95%99 >・・・
 三方ヶ原の合戦の折には、徳川軍が算を乱して潰走する中、家康の傍を離れず浜松城まで随従したことから、その忠節を家康に評価され、奉行職に列した。・・・
 本能寺の変に際して家康の伊賀越えに同行<。>・・・
 1586年・・・の家康上洛のときに従五位下治部少輔に叙任され、豊臣姓を下賜された。・・・
 秀次事件の際、豊臣秀次が秀忠を人質にして家康に仲介してもらおうと画策した。しかし忠隣は秀次が送ってきた2度の使者を巧みに追い返し、その間に秀忠を伏見屋敷に避難させて難を逃れたという・・・。・・・
 関ヶ原の戦い時には東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、途中の信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立する<。>・・・
 キリシタン追放の命を受け京へ赴き、翌・・・1614年・・・1月18日より伴天連寺の破却、信徒の改宗強制、改宗拒否者の追放を行っている。しかし翌日に突如改易を申し渡された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E9%9A%A3
 「表向きの理由は幕府に対する無届婚姻だが、実際は、忠隣と並ぶ実力者本多正信およびそのバックにある家康の駿府政権との確執、忠隣の庇護した大久保長安(ながやす)が死後に陰謀ありとされた事件との関連、忠隣と豊臣氏との親近など複雑な事情がある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E9%9A%A3-39134

⇒忠隣の改易の理由については、定説がないようですが、私は、家康と秀忠も(日蓮主義者でもありませんが)日蓮宗信徒ではないところ、草創期の徳川幕府の重臣達で、(徳川四天王と称された酒井忠次、本多忠勝、榊田康政、井伊直政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1 ←酒井忠次
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E5%8B%9D ←本多忠勝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BA%B7%E6%94%BF ←榊田康政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E6%94%BF ←井伊直政
にせよ、本多正信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E4%BF%A1
にせよ、板倉勝重
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%8B%9D%E9%87%8D
にせよ、大久保長安
https://ginzan.city.ohda.lg.jp/highlight/%E5%A4%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA%E8%B7%A1/
にせよ、彼らが日蓮宗信徒ではなかったことから分かるように、)日蓮宗信徒であった例は珍しかったのに、大久保忠世兄弟と大久保父子が日蓮宗信徒であったことに注目しています。
 これは、今のところ、仮説とさえ言えず、憶測の域を出ませんが、忠隣にキリシタン禁止を命じると共に、命じた忠隣をその直後に改易することで、日蓮宗信徒/日蓮主義者についても、(実はキリシタン/キリシタンシンパ同様、)豊臣氏と縁が深いことからペルソナ・ノングラータである、ということを幕府がアピールしようとしたのではないか、と、私は考えたくなっています。(太田)

 <これは、>キリシタンが大坂城の豊臣秀頼と結びついて幕府に抵抗することを警戒した措置である。
 翌年正月に忠隣は京都に入ってキリシタンの一斉摘発を開始し、南蛮寺に放火するなど積極的に動いた。
 これによって上方の信徒の多くは棄教したが、70人ほどの信徒はこれを拒んだため、奥州外浜(そとがはま)(青森県津軽地方)に流刑となった・・・。<(注23)>

 (注23)「京都・大坂で逮捕され棄教しないキリシタン宗徒は、京都四十七人、大坂二十四人の男 女・子供達であったが、四月初旬これらの宗徒を「津軽外ケ浜に流す」(『徳川実紀』)ことが決定され、五月一日これらの流刑宗徒は裸馬に乗せられ、大津からは琵琶湖を塩津へ渡り、塩津街道を北上して敦賀に入り、ここで津軽からの出迎船を待った。五月二十一日には津軽藩差廻しの船で敦賀を出帆し、六月十七日西津軽郡の鯵ケ沢に着いたと思われ、ここから高岡(後の弘前)へ着いた。「同国の大名(津軽信牧)は、この善良なキリシタン達を同情を以て迎へ、その生活費を一部助けてやりたいと思った。然し、彼は君主の命令によって、彼等を百姓の荒仕事に就かせなければならなかった。然も流人達は悦んで之を承認し、」(『日本切支丹宗門史・上巻』レオン・パジェス著 岩波文庫)流刑地に到って農業開拓をして流刑生活を送ることになった。同書は一六一六年・・・のその生活状況を「聖なる津軽の流人達は、到着以来、真に辛い耕作に從ってゐた。彼等は名門の出で、富裕の間に成長したので、農具のことなどは全く知らないも同然であった。……略…… 飢餓は、又彼等を苦しめんとし、普通 ロ-マの一エキュ-の二十分の一であった米相場は一エキュ-に暴騰した。之等士分の流人達は草根で命をつなぎ、而(しか)も之を発見することが出来る中はまだ仕合せであった。彼等の主要な、否寧(むし)ろ唯一の資源は、長崎からの布施であった。」と述べている。
 この流刑キリシタンの惨状が長崎に知らされ、宗徒達は慰問の金品を集め、津軽の宗徒に届けようとしたが、国外追放を受け、長崎で船を待っていた外国人神父のジェロニモ・D・アンジェリス神父が率先志願し、死を賭してこれを届けることになったが、のち、この神父が蝦夷地と深いかかわりを持つようになった。
 アンジェリス神父は一五六八年シシリア島のエンナに生まれ、十八歳でイエズス会に入会して神学生となり、敍品(じょひん)の終わらないうちにインドへ派遣され、司祭に昇進した。ゴアからマラッカを経て中国のマカオへ着いた神父は、ここで一年余滞在して日本語を勉強し、一六〇二年・・・日本に着いた。一六〇三年には京都伏見の修道院で一年間日本語を学び、その後京都から駿府付近までを持場として、布教活動に入った。しかし、慶長十九年(一六一四)キリシタン禁教令による外人神父の国外退去の命を受け長崎に集結して、船待ちをしていた時に、この津軽訪問を決意したのである。」
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%94%BA%E5%8F%B2%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB%E3%80%80%E9%80%9A%E8%AA%AC%E7%B7%A8%E4%B8%8A%E5%B7%BB/%E7%9B%AE%E6%AC%A1/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%B7%A8%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80/

 この方針に従って諸大名も領内でキリシタンの弾圧に着手したので、多くの血が流された。・・・」(109)

⇒最初は、(大名レベルにおいては、その領内で様々な対応がなされたものの、)幕府も原理主義的キリシタン達も、比較的良識的な対応をしていたわけです。(太田)

(続く)