太田述正コラム#1457(2006.10.19)
<白洲次郎に思う>
1 始めに
白洲次郎(1902??1985年)の「プリンシプルのない日本」(新潮文庫)を読みました。
この本の中には、「野人・白洲次郎」という今日出海の文章が収められており、そこに、「彼は戦前日米戦争が不可避だと予言していた。その時は蒋介石を相手にせずと日本が言っていた頃である。そして必ず日本が敗北し敗北の経験のない日本人は明く飽くまで抗戦して、東京は焼け野原になるだろうともいった。そこで彼は地の理を研究して現在の鶴川村に戦前の疎開を敢行したのである。負け込むと食糧難に陥ることも彼の予見で、百姓になって人知れず食糧増産に心がけていた」(14??15頁)とあります。
また、この本に収録された座談会の中で、河上徹太郎が、「<白洲さんは、>開戦直後にアメリカは二年後にこれだけの海軍を造って来る、と言ったんだ。そしたら日本の海軍のお偉方がそれを信用しなかったんだ。そんなに出来るわけがないっていうんだね。所がそれが次郎さんの言う通り出来ちゃって、本当にマリアナへ来たんだよ。」(257頁)と語っています。
話半分だとしても、恐るべき予見力を持ち合わせた人物がいたものです。
2 吉田ドクトリンと白洲
ところが、その白洲が、「占領軍からのお土産品・・<なるがゆえに、>日本<の>民主主義がもらいもので附けやきばであることは残念ながら事実です」(217、248頁)とか、「<新>憲法・・のプリンシプルは実に立派である。・・戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」(226頁)というバカみたいなことを言っています。
前者は、白洲が日本の自由民権運動から大正デモクラシーに至る歴史について全く無知であることを暴露していますし、後者は、「明治維新前までの武士階級等<に>はプリンシプル<があったが、昨今の>我々日本人の日常は、プリンシプル不在の言動の連続であるように思われる」(217頁)、「日本・・人<は>・・日本<が>島国<なので、>国際感覚・・がなかった<し、>外国のことを知らな<さすぎた>」(30。262頁)と白洲はもっともらしいことを宣っているにもかかわらず、彼自身、真のプリンシプルや国際感覚など持ち合わせていなかったことを示しています。
こんな白洲だからこそ、「安保条約の締結の必要の根本は、日本が全然無防備の国であるとの建前をとったことによると思うが・・<そもそも、>安保を廃止して自分のふところ感情で防備をすれば、いくらかかる。・・<その安保で日本を守ってくれているアメリカが主権回復直後の日本に対し、>国防の充実を・・希望していると伝えられている<が、>ただでさえ生活に追われて、食うや食わずの大部分の日本人がこんな金のかかることをどうしてやってゆけるのか・・」(138??139、214、223頁)と、経済最優先で、国防なんぞにはとにかくカネをかけないように腐心するわけです。
ご存じの方も多いかと思いますが、この白洲こそ、総理時代の吉田茂の側近中の側近として、占領軍との交渉や経済の復興に縦横無尽の活躍をした人物(290??292頁)なのです。
吉田自身は、日本が主権回復後、憲法を改正して再軍備をするのは当然だと思っていたのに、吉田の不肖の後継者達は、親の子、子知らずで、占領下の緊急避難として吉田がとった経済優先・再軍備拒否政策を墨守し、この政策を吉田ドクトリン化してしまうのです(拙著「防衛庁再生宣言」)。
この本を読んで思ったのは、白洲こそ吉田ドクトリン成立のキーマンなのではないか、ということです。
何せ、抜群の予見力を持っていると目された人物、そして、吉田茂の側近中の側近として畏敬されていた人物が、国防を米国に丸投げして経済復興(成長)に専念すべきだと唱えたのですから・・。
3 終わりに
とはいえ、この本は推賞に値します。
例えば、役人、特に外務官僚のダメさかげんや日本型政治経済体制の腐敗体質を指摘した箇所は、現在の話かと思われせますし、GHQのお粗末さを描いた箇所は、フセイン体制打倒後の米軍のイラク「統治」を彷彿とさせます(頁は略す)。
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白洲次郎のプリンシプルを貫いて影ながら日本を守った人物。農業・企業・政治と職も多いが先見の明もある。今の日本人にはない頑固一徹があると思う。騎士道と武士道を併せ持ち、海外の考え方を持ち合わせた人物で父文平や母のキリスト教も影響があったのだろう。新たに現れることに祈りたい。