太田述正コラム#12297(2021.9.30)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その11)>(2021.12.23公開)

 「幕閣首脳陣には大きな不安があった。
 キリシタンの禁圧政策や鎖国が「祖法」とされるとき、万が一にも、家康がキリシタンに寛容な態度をとり、外国と友好関係を結び貿易にも積極的だったという事実を指摘され、「これこそが祖法ではないか」と迫られれば、返答に窮する事態に陥るからである。・・・
 <結局、>幕府・・・は、「家康は生涯を通じて反キリシタンの態度をとり、外国と交わった事実は皆無である」という偽りのストーリーを創作し、あくまで「祖法」としての立場を貫いてキリシタンの脅威に対処<した>。・・・
 『徳川禁令考 前集第五』には、「御条目宗門檀那請合之掟(ごじょうもくしゅうもんだんなうけあいのおきて)」というタイトルで「慶長十八年五月 奉行」として年紀と発給者を明示したうえ、「日本諸寺院」に宛てた十五ヶ条(実際は十四ヶ条)の法令が掲載されている。
 編者がつけた題名は「邪宗門吟味之事」であるが、形式や内容からみて異常なものである。
 たとえば第一条は次のようになっている。
 一、切支丹の法、死を顧みず、火に入りても焼けず、水に入りても溺れず、身より血を出して死をなすを成仏と建つるゆえ、天下の法度厳密なり、実(まこと)に邪宗なり、之によりて死を軽んずる者、吟味を遂ぐべき事

⇒どこが異常なのでしょうか。
 当時の原理主義的キリシタンは嬉々として「殉教」に臨んだ(典拠省略)ところ、その的確な描写以外の何物でもないというのに・・。
 (現代の原理主義的イスラム教徒は嬉々として自爆テロを決行するところ、少なくともそれよりは「正常」であることは、衆目一致することでしょう。)(太田)

 第七条には「切支丹、悲田宗、不受不施三宗共に一派なり」という文言があるが、これには年代を否定する手がかりがある。
 ・・・1595<年>9月に開かれた方広寺大仏殿の落慶法要は、豊臣家の先祖供養を兼ねて行われたが、このとき秀吉は各宗に対して百人の僧侶を出仕させるよう命じた。
 日蓮宗(当時の名称は法華宗)の内部では、これは公儀の仰せであるから国家の祈禱と同じで、出仕もやむをえないという受布施派が多数を占めていたが、京都妙覚寺の日奥<(注24)>らは、いかなる法難を蒙るとしても宗法を守って出仕を拒否し、不受不施の立場を貫くべきであると主張した。

 (注24)1565~1630年。「京都の呉服商の・・・子に生まれる。・・・対馬にいること23年、・・・1623年・・・に赦免となり、不受不施派の弘通が許された。・・・1630年・・・、受布施派と不受不施派の対立が再燃する中で死去。同年4月、両者は江戸城にて対論(身池対論)した結果、日奥は幕府に逆らう不受不施派の首謀者とされ、再度対馬に流罪となったが、既に亡くなっており、その遺骨まで流されたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%A5%A5

 この時は秀吉からの咎めを受けず無難にすごすことができたが、家康は・・・1599<年>に大阪城で両派を対論させ、不受不施派<(注25)>の敗訴という裁定を下し、日奥を対馬へ流刑に処した。

 (注25)「日蓮宗の一派。不受不施とは受けず施さずということで、日蓮宗以外の他宗および不信者(謗法者)の布施供養を受けず、信者は謗法の僧に供養しないという、日蓮教団の信仰の清浄、純正を守るための宗規であり信条である。この不受不施義は、日蓮教団の形成・発展の初期は、公武の権力者は枠外にあった(王侯除外の不受不施制)が、室町時代に入ると公武も一般信者も同等にして差別なしとされ、宗祖日蓮以来の古制として厳守されてきた。1595年・・・豊臣秀吉は東山の方広寺に大仏殿を建て千僧(せんそう)供養を営み、諸宗の僧とともに日蓮宗も招請した。これを拒む日奥と柔軟派の日重とが対立、結局、日重派が大勢を占めたが、ここに不受不施の論争が展開することとなった。秀吉が没し、徳川家康の時代となると、日奥の主張は国主の権威を損なうものとして1600年・・・対馬に遠流された。1612年日奥は赦され、23年・・・江戸幕府は不受不施派に公許状を与えた。しかし、布施を受けることを認める京都側と、不受不施を主張する関東諸山はつねに対立した。幕府は初め、2派の対立抗争に介入せず、統制下に置くこともなかったが、1660年・・・ころ幕府機構の確立とともに全国寺社領の朱印を調査し、改めて朱印を下付した。ここに、朱印を放棄し出寺した不受不施僧(法中(ほっちゅう))を中心に、表面は一般日蓮宗や天台宗、禅宗などの檀家となり内心に不受不施を信ずる(内信(ないしん))者と、自ら戸籍を脱して無宿の者となり内信と法中の間にあって給仕する(法立(ほうりゅう))者とが自然に生まれ、内信―法立―法中と連係する秘密の教団組織が形成され、これを不受不施派という。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8D%E5%8F%97%E4%B8%8D%E6%96%BD%E6%B4%BE-124540

 これによって不受不施派(王侯除外の不受不施)は、将軍などの権力者から与えられる寺領は憐れみや恵みとして施される悲田(ひでん)にあたると解釈し、・・・1665<年>みずから悲田宗<(注26)>と名乗って独立した。」(111~114)

 (注26)「日蓮系は、不受不施義を貫いていましたが、戦国時代、為政者による宗教弾圧や宗教利用が激しくなるに連れ、僧侶や寺院が為政者からの供養を拒否するのが難しくなりました。
 俺の領地にある寺院のくせに俺からの寄進を拒否するのか!という圧力が強くなってきました。
 寺院存亡の危機に立たされ、多くの門流がやむなく不受不施義を捨て、受不施義を立てました。
 受不施義に反発して出来た派閥が「不受不施派」です。
 しかし、領主が他宗派の場合、領主から、俺は法華じゃない、だから俺の領地でとれた米を喰うな、他宗からの施しは受けないんだろ?となります。
 米は領主からの供養なのか、もし供養ならば受け取れないが、これは供養ではなく領主の慈悲によるものなので構わないとする悲田派と、いやいや、領主は関係ない、大地の恵みなので領主など気にしなくて良いとする恩田派、という二つの不受不施派が生まれましたが、当然恩田派はすぐに潰され、しばらくして幕府が土水供養令(土も水も当然米も慈悲ではなく供養であるという宣言)を出したため悲田派も禁止されます。」
https://ameblo.jp/banana-8t1e/entry-12174565796.html

⇒秀吉が不受不施派の祖とも言うべき日奥を咎めなかったのに、家康らが咎めたのは、私見では、そもそも、家康が、不受不施派であるとないとを問わず、日蓮宗が嫌いだったからではないかと思われるところ、それはキリシタン嫌いと一対のものとしてだったのではないでしょうか。
 というのも、(次回東京オフ会「講演」原稿で詳述しますが、)広義の豊臣家及びそのゆかりの人々の多くが、(日蓮宗信徒を含む)日蓮主義者か(キリシタンを含む)キリシタンシンパ、だったからであり、徳川政権はそういう人々が担い手となっていた豊臣政権を打倒するまでの間はともかく、打倒に成功してからは、豊臣家及びそのゆかりの人々への遠慮を捨てて、豊臣家的なものの払拭に乗り出したのではないか、というのが私の見方です。(太田)

(続く)