太田述正コラム#12299(2021.10.1)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(補遺)>(2021.12.24公開)

1 始めに

 コラム#12297を執筆する際に不受不施派のことを調べていて、下掲のくだりに遭遇しました。↓

 「不受不施派の信者は日蓮の地元であった上総国、下総国、安房国や室町期に日蓮宗勢力が拡大した備前国、備中国に多く潜伏していた。彼らは厳しい摘発を受け、隠れキリシタンのように刑罰を受けるか、改宗の誓約書を取られるかした。とりわけ岡山藩は宇喜多氏配下にいた国人層から帰農した者が多く、その多くが日蓮宗に帰依していた事情もあり、藩主の池田氏は不受不施派の弾圧を行うことで不安定要素となっている彼ら国人層の押さえつけを狙った事情もあると考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%97%E4%B8%8D%E6%96%BD%E6%B4%BE

 日蓮主義者であったはずの、当時の池田光政(1632年から岡山藩藩主。死亡は1682年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF
が、いくら、不受不施派を含む日蓮宗信徒たる国人衆が多かったとしても、幕府が始めた不受不施派の弾圧を熱心に行ったとされることに、違和感があったので、少し、調べてみました。

2 宇喜多家の日蓮主義

 宇喜多秀家のウィキペディアにも、「宇喜多家では日蓮宗徒の家臣が多かった」とあるのですが、同じ、ウィキペディアに、「秀家<の>・・・幼少<期には、>・・・ 戸川秀安や長船貞親、岡利勝(この3人は宇喜多三老と呼ばれた)ら直家以来の重臣たちが秀家を補佐した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6
とあるところ、戸川秀安は、「宇喜多水軍を率いて本願寺方で参戦した記録がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%AE%89
ことから日蓮宗信徒とは思えなかったのですが、戸川家歴代の墓所が日蓮宗の盛隆寺
https://ameblo.jp/threehouse2019/entry-12471853065.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E9%9A%86%E5%AF%BA_(%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82)
であることから、秀安も日蓮宗信徒だったと思われ、
長船貞親の宗派は分かりませんでしたが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%88%B9%E8%B2%9E%E8%A6%AA
岡利勝(家利)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%AE%B6%E5%88%A9
は、「元亀時代(1570~73)に討ち死にした家来や親戚の菩提を弔うため、京都の日蓮宗妙顕寺に請願して宮山城跡の下に寺を建立し、妙法山経王寺と号し・・・た。」
https://ameblo.jp/threehouse2019/entry-12688835523.html
というのですから、日蓮宗信徒だったと思われます。
 ですから、宇喜多氏配下に日蓮宗信徒が多かった、というのは事実だったと見ていいでしょう。
 この地に日蓮宗が広まり、国人衆の間に信徒が増えた経緯は次のようなものだったようです。↓

 「<備前>の国主であった赤松則興の息子、権大僧都日伝上人によって、・・・1403<年>、則興の追善供養のために開かれたのが、日蓮宗のお寺、妙興寺です。中世末には浦上氏、明石氏、内藤氏、石原氏などの厚い保護を受け、檀家の数も非常に多くなりますが、そのため各檀家へのフォローが行き届かず、後に不受不施派が広まる要因となります。・・・
 守護大名として備前に君臨した赤松氏も徐々にその力を失い、代わって台頭してきたのが、赤松氏の家臣であった浦上氏です。
 宇喜多能家は、その浦上氏の村宗、宗景親子二代に仕え、数多くの武勲を挙げますが、・・・1534<年>、同じ宗景の家臣である島村貫阿弥に、居城の砥石城(邑久町)を夜襲され、命を落とします。宗景は貫阿弥を咎めることはありませんでした。城を追われた能家の子 興家と孫の直家は福岡の商人 阿部善定の元に身を寄せます。興家はこの地で寂しく世を去りますが、孫の直家は後に宗景に仕えることとなり、乙子城主を振り出しに徐々に力をつけていき、ついには主君宗景をも駆逐し、備前を支配する典型的な戦国大名へとのし上がっていきます。
 妙興寺には、興家の墓があります。」
http://limestone.blue.coocan.jp/outdoor/iroiro/osafune/osa2.htm
 ここに登場する宇喜多直家の墓所は平福院(廃寺)と光珍寺で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
光珍寺は天台宗の寺であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E7%8F%8D%E5%AF%BA
平福院の方は宗派が分からないのですが、「信仰心にも厚く、金川城主の松田氏が領内の主要な寺社に対して自身の信奉する日蓮宗への改宗を迫った時、これに応じなかったために焼き討ちに遭ったが、堂塔社殿を焼失した金山寺や吉備津彦神社の再建を援助している。そのため、これらの寺社は直家を崇敬している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
というのですから、直家は天台宗信徒であったと見てよいでしょう。
 更に、直家の子の秀家は流刑になり八丈島で死去していますが、墓所は、島の墓地のほか、江戸近郊の浄土宗の寺院と金沢の浄土宗の寺院(上掲及び、下掲)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%85%89%E5%AF%BA_(%E6%9D%BF%E6%A9%8B%E5%8C%BA)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%93%AE%E5%AF%BA
にあり、この2寺は、前田家出身の秀家の正室の豪姫ゆかりの寺である(上掲)ことから、秀家も浄土宗信徒であったと断定はできませんが、少なくとも日蓮宗信徒ではなかった、と考えられるのです。
 
(続く)