太田述正コラム#12301(2021.10.2)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(補遺)(その2)>(2021.12.25公開)

2 池田家の日蓮主義

秀吉の養子になっていて、当然、日蓮主義者になっていたはずの秀家が日蓮宗信徒にならなかったのは、実父の姿勢を継承した、というよりは、秀吉の姿勢を継承したのだと私は考えています。
 池田輝政(1565~1613年)の孫の光政(1609~1682年)は、このような、宇喜多秀家の旧領を池田家としては初めて治めることとなったことから、秀家の失脚理由を追究すると共に、輝政から直接薫陶を受けることはなかったけれど、父の利隆(1584~1616)から、辛うじて、日蓮主義を受け継ぎ、その上で、秀家の失脚理由も、秀吉の日蓮主義に基づく唐入りが成就できなかった理由のかなりの部分も、どちらも、秀吉の、対キリシタンや対日蓮宗不受不施派姿勢に見られる宗教全般に対する甘さに由来する・・次回東京オフ会「講演」原稿で詳述する・・、と自分なりに総括し、だからこそ、(キリシタンはもとよりですが、)仏教の全宗派を弾圧した、と見るに至っています。↓

 「池田光政の排仏向儒の理想のもとに行なわれた神職請制度は、<1665>年の幕府の諸寺院統制の強化、殊に日蓮宗不受不施派の禁教という事態を背景にもって、岡山藩内の大部分を蔽う制度として普及し、この制度の普及にともなう領民の檀那寺からの離脱、寺僧の立退・還俗などによって、日蓮宗不受不施派をはじめとして、その他の諸寺院をも合せて、藩内の寺院の廃絶するもの、実に約600寺、藩内惣寺数のおよそ58%に及ぶ異常な事態を現出したのである。
 この神職請制度は、その後、池田光政が・・・1682<年>に卒去してのち5年、嗣子綱政の治世の・・・1687<年>に、幕府からの強い要望もあって改廃され、<1666>年以前の寺請制度に復することになったのである。
 ・・・この神職請の制度<は、>施行された期間は約20年という、さして長からざる年月であったとはいえ、幕府の抑制や、<世>の批判の中で、敢えて行なわれた・・・<のである。>
 光政はまた、その儒教尊崇の立場から、・・・1655<年>以後、祖先の祭祀にも仏事による追薦の儀を止めて、儒法による祭儀を行ない、・・・1659<年>には城西の石山の地に、祖考池田輝政、祖妣中川氏夫人、先考池田利隆を祀る宗廟を建営したが、更に<1666>年には領内の和気郡和意谷(わいだに)の敦土(とんど)山に新たに塋城を築営して、それまで京都花園の妙心寺の塔頭護国院に葬られていた輝政・利隆らの遺骨を、翌・・・年・・・に和意谷の新塋城へ改葬し、その儀すべて儒葬の儀式に則って行なわれている。」(水野恭一郎「岡山藩神職請制度補考」より)
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0008/OS00080R263.pdf
 水野恭一郎(1912年~)は、京大文(国史)卒、京都市史編纂員、海軍機関学校教授、姫路高等学校教授、岡山大教授、仏教大教授を歴任。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784784210527

 光政の場合、儒教といっても陽明学・・知行合一、万物一体の仁、等を唱える(典拠省略)・・だったわけであり、それは、日蓮主義の隠れ蓑に相応しいことから選ばれたはずです。
 徳川光圀(1628~1701年)は、ほぼそっくりそのまま、この、先達、光政の宗教・思想政策を真似しており<(注1)>、違う点と言えば、光圀が、(私見では日蓮主義史書とも言うべき)『大日本史』の編纂に着手したこと、くらいでしょう。

 (注1)光政の師の熊沢蕃山は陽明学、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1
光圀の師は朱子学と陽明学の中間の支那人である朱舜水だった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E8%88%9C%E6%B0%B4
とされているが、蕃山の「学統<は>陽明学者の一人とみなされているものの,朱子学,陽明学の折衷者とみなされる。」
https://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1-16500
というのだから、実は、師は、両者、ほぼ似た者同士だ。

 このように見てくると、光政こそ、(功利主義的に宗教を使うと共に天皇家を巻き込まない)信長流日蓮主義、(あらゆる宗教に甘く、かつ、天皇家を巻き込む)後醍醐/秀吉流日蓮主義、に続く、(あらゆる宗教に厳しく、天皇家を巻き込む)光政流日蓮主義という、第三の日蓮主義を形成した人物だった、と言えそうです。
 そして、ご存知のように、日蓮主義、陽明学(注2)、と、廃仏毀釈、とからなる、この光政流日蓮主義が、幕末の日本を維新の日本へと転換させ、その後の日本の(先の大戦の)終戦までの歩みを規定することになるのです。

 (注2)薩摩藩の「西郷隆盛は、大久保利通や・・・海江田信義・・・らと、薩摩藩における陽明学の第一人者である伊東祐之(すけゆき)から陽明学を学び、佐藤一斎の言行録である『言志四録』を座右の書としていた。
 ・・・佐藤一斎は、・・・朱子学が専門だが、・・・『言志四録』は陽明学の視点で記されたもの<だ。>」
http://www.pref.kagoshima.jp/af23/documents/71317_20190322183444-1.pdf
 長州藩の「吉田松蔭・・・は軍学、兵学ばかりでなく、国学、儒学、史学も学んでい<る>が、特に儒学の一種の陽明学を深く学んでいた」
https://yamato81.hatenablog.jp/entry/2015/05/01/%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6%E3%81%A8%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0%E5%85%88%E7%94%9F

 そうだとして、どうして、(池田輝政の子孫でもあって、岡山、因幡の両池田家と縁が深い)島津斉彬は、光政・光圀流の日蓮主義者であることにとどまらず、日蓮宗信徒になったのか、にもかかわらず、どうして、斉彬の遺志を継いだ薩摩藩の人々は、光政・光圀流の日蓮主義であるところの、廃仏毀釈、を薩摩藩から始め、全国に及ぼしたのか、が、問題になります。
 それは、いずれ、私の日本通史が幕末~維新期に差し掛かった時まで、私自身の宿題にしておきましょう。

(続く)