太田述正コラム#12309(2021.10.6)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その14)>(2021.12.29公開)
「島津氏は・・・1587<年>に秀吉の攻撃を受け降伏したが、その後は、秀吉の権威を背景に強圧的態度をとり、琉球を属国扱いしていく。
朝鮮出兵に際して、島津氏は秀吉から1万5000人の軍役を賦課されたが、それには琉球の分も含まれていた。
秀吉は琉球を独立国と認識しておらず、あくまで「島津氏の与力」であった・・・。
これを受けて島津氏は、「本来ならば、秀吉の指示通りにするところだが、貴国は遠方で日本の軍法に不案内であるから、人数を徴発することは免除するが、その代わり7千人分の兵粮10ヶ月分を用意するように」・・・と、琉球へ恩を売りながら締め付けを行っている。
秀吉の朝鮮出兵を契機に琉球支配は強められたが、その帰結が武力侵攻である。
島津家久は、・・・1609<年>4月に幕府の許可を得て3000人の軍勢を琉球に派遣した。
出兵の理由については、かつて琉球の漁船が日本近海で難破したとき、救助された漁民は島津氏を通じて送還されたが、これについて琉球国は謝恩の使節を派遣しなかったこととされている。<(注32)>」(128~129)
(注32)「1588年、時の天下人豊臣秀吉は謁見した島津義弘に対し、天下統一するも琉球だけが臣従の例を尽くしておらず、このままでは兵を発して琉球を滅ぼす事になると、これを直接的に恫喝する「上意」を発したと言う。その旨は1588年の島津義久から尚永王の書簡に著された。
秀吉はそもそも途絶している日明貿易の再開交渉が難航し拗れた事に業を煮やし明国の征服を決意したとされており、そのためにまず朝鮮を討つべしと文禄・慶長の役(朝鮮役)を企てた。1591年には、朝鮮出兵に際し薩摩と共に軍役負担を琉球に命じ、応じなければまず琉球から攻める等と、秀吉からの書簡で直接かつ明確に恫喝されたのである。これは結局、軍役負担は島津氏が肩代わりし、さらに代替として求められた兵糧米の供出は、王府の苦しい台所事情もあってか要求の半分に留まり、島津に更に借りを作る(つけ入るすきを与える)ことになった。更に窮した王府が明国福建省の役人に窮状を訴え出るも、特に色よい返事はなくただ秀吉を説得せよとの回答だけであった。
実情としては、島津氏が豊臣秀吉から徳川家康・秀忠までの治世における多大な軍役負担、賦役負担のため財政難に喘いでおり立て直しのために琉球王国から奄美を割譲させるとともに琉球貿易の独占的利権を得ようとしており、「嘉吉附庸説」などを持ち出して王国への圧力を強めていた。さらに九州南部の薩摩国、大隅国などの傘下の国人領主に対する貿易統制引き締めや貿易港直轄化に乗り出し体制を整え、王国に対しても日琉間の貿易統制を命じるが、王府側はこれに黙殺を続けたために両者の関係は次第に敵対関係に転じていった。
更に徳川の治世に至ってもなお、朝鮮役後の日明関係修復の使節仲介などを巡って軋轢を生じ、終には島津氏からの最後通牒も王府は黙殺したため、家康・秀忠の許しを得て奄美・琉球侵攻へと乗り出す事になった。なお、最後通牒を含む侵攻直前の遣り取りでは、島津側は三司官(謝名ら)を名指しで非難している。
日本側史料『南聘紀考』によれば、侵攻は次のような経緯(名目)で起こったとされる。
1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還された。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山王府は最後までこれに応じなかった。1608年9月には、家康と秀忠が水軍を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて大慈寺龍雲らを遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず朝聘するよう諭したが、謝名利山は聴従せず、かえって侮罵に至り、大いに龍雲を辱めた。こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となった。このように、同時代の日本側の記録は、本事件の根本的原因を謝名の人格的要因に帰し、これを幕府とその命を受けた島津氏による「琉球征伐」と位置づけている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E4%BE%B5%E6%94%BB
「嘉吉附庸論は、島津藩に「薩藩古記録」があるだけで、同じ文書が室町幕府からは発見されていない。
新井白石が記した「琉球事略」によると、琉球国が室町幕府と初めて接触した事が文書で確認されるのは西暦1451年で、8代将軍、足利義政の時代であり、その時、銅銭一千貫を幕府に納めたとされる。<(>出典:ウィキペディア 新井白石(1657~1725)<)>
公式文書に残る最初の接触が1451年なのに、その10年前に室町将軍が島津忠国に、琉球諸島を与えるなどあり得るのか?
ついでに言えば、当時すでに権力を失い、有力守護大名の対立に振り回された室町幕府が、遥か南の琉球に影響を及ぼし、ましてや、支配していたという事実もない。」
https://okireki.muragon.com/entry/154.html
「琉球では「嘉吉附庸説」というのがあります。<6代将軍になった、義政の父親の>義教と将軍職を選ぶくじ引きの対象だった大覚寺門跡義昭が日向にまで逃亡し、島津氏がそれを討ち取ったので、その褒美に義教から琉球を拝領した、と・・・。<しかし、>専門の研究者でそれを信じる人はあり得ません<。これは、>・・・島津氏が作ったデタラメです。
室町将軍→琉球国王への文書が御内書であることを以って琉球が日本とみなされていた、という見方も根強く存在します。しかし・・・<こ>れは断じて御内書ではありません。・・・国内向けの「御内書」には印判を捺しません。将軍家の花押です。印判を捺すのは明・朝鮮・琉球です。」(筆者・秦野裕介:立命館大卒、同大院博士課程単位取得退学。)
https://sengokukomonjo.hatenablog.com/entry/2019/02/27/002002
⇒戦後の日本は、その全体が、この当時の琉球化してしまった、と言うべきでしょう。
琉球人は、本土人とは違って、基本的に縄文人であり、弥生性が極めて希薄であり続けて現在に至っているのであって、軍事を怠り、その結果、外交も拙劣になった結果、宗主国が明から日本(薩摩国)にほぼ自然に移行した、というわけです。(太田)
(続く)