太田述正コラム#12315(2021.10.9)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その17)>(2022.1.1公開)
「1598<年>・・・に世を去った秀吉は、折から朝鮮出兵の最中であったため、その死は秘匿されたまま京都東山の阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)に葬られ、その場所に神社が建立された。
秀吉は神として豊国社に祀られ、正一位の神階と豊国大明神という神号(しんごう)が授けられたのである。<(注36)>
(注36)「秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言したといわれる。「大仏の鎮守」として着工された社は、秀吉の死が明らかになるのに合わせるように「新八幡社」と呼ばれるようになる。
・・・1599年・・・4月16日、朝廷から秀吉自身の望みとは相違して豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)の神号が与えられた(『押小路文書』「宣命」)。『豊国大明神臨時祭礼御日記』によれば日本の古名である「豊葦原中津国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識したものであった。神号下賜宣命には豊国大明神は兵威を異域に振るう武の神と説明されている。4月18日に遷宮の儀が行われ、社は豊国神社と命名された。4月19日には正一位の神階が与えられた(『義演准后日記』。なお、豊国神社は豊臣秀頼の希望により大坂城内にも分祀された。秀頼自身は本社創建の際には参列しておらず、・・・1611年・・・の二条城訪問の折に最初で最後となる参拝を行っている。大明神号となったのは、八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったとする説や、反本地垂迹説を掲げる吉田神道による運動の結果とする説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
⇒「注36」についてですが、私は、(次回東京オフ会「講演」原稿で説明しますが、)後陽成天皇/近衛前久・信尹、と、秀吉、とは、唐入りのやり方を巡って深刻な対立関係にあったことから、秀吉の死の直後に、さっそく、秀吉の遺志に反する、しかし「軽易」なことを行った、と見ています。(太田)
これ以前に秀吉は、京都東山の三十三間堂の近くに方広寺大仏殿を建立した。
奈良の東大寺大仏殿を凌ぐほどの威厳をもつ国家鎮護の道場である。
⇒直接の典拠は付されていないけれど、「豊臣秀吉は・・・1586年・・・に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA
というのですから、ここは、その通りなのでしょう。(太田)
方広寺という名称はのちに付けられたもので、当時は大仏と呼ばれていた。
工事は諸大名の御手伝い普請として・・・1588<年>頃から本格的に開始された。・・・
王城を守護するという国家的性格を帯びた方広寺は、秀吉にとっては豊臣家の菩提寺を意味していた。
⇒「王城を守護する」とは、急に話が小さくなったものです。
典拠も示されていませんし、これは、三鬼の筆が滑ったか?
また、「1595年・・・9月25日には秀吉自身の祖父母の供養のため寺内の南北15間東西21間の巨大な経堂で千僧供養会を行った」(上掲)からといって、「方広寺は、秀吉にとっては豊臣家の菩提寺を意味していた」とは言い切れないのではないでしょうか。(太田)
・・・1595<年>9月に催された大仏殿の落慶法要に際して、国家鎮護の祈禱に先だって、秀吉は豊臣家の先祖供養を行ったのである。・・・
豊国大明神は豊臣家の氏神に位置づけられていた。
もとより氏神とは無縁であった秀吉が、織田家の剣神社(越前)、徳川家の伊賀八幡宮(三河)に匹敵するものをもつには、みずからを祖神とする神社を創出する以外に方法がなく、それが喫緊の課題となっていたのである。・・・
⇒ここは、確かにそうとも考えられるように思います。(太田)
家康にとって秀吉は主君である。
関ケ原の合戦に勝利したとはいえ、それは豊臣恩顧の大名の活躍によって掴んだものであることを家康自身も認識していた。
秀吉の七回忌にあたる・・・1604<年>8月に催された豊国社臨時大祭での熱狂ぶりは、民衆の間に太閤を慕う気持ちが根強いことを印象づけた。
当初は家康も豊国社に参詣し崇敬の念を示している・・・。
しかし、このままでは豊国社は幕府にとって危険な存在となる。
家康は慎重かつ冷静に対策を講じた。
・・・1609<年>8月の豊国社への禁制公布はその第一歩である・・・。
⇒ネットに少しあたってみたけれど、何のことか、不明です。(太田)
なお、豊国社の祭礼は大坂夏の陣が勃発する<1615>年4月まで継続して開催された・・・。」(149~151)
(続く)