太田述正コラム#12319(2021.10.11)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その19)>(2021.1.3公開)
「「禁中幷公家諸法度」は、天皇の行動そのものを規制の対象とする内容を含んでいる。
豊臣政権は秀次事件の直後の・・・1595<年>8月、緊迫した事態を収拾するため宿老集(いわゆる五大老)が連署して「御掟・御掟追加」<(注39)>を制定したが、その第一条は「諸公家・諸門跡・寺社で、天皇については全く触れていない。
(注39)「秀次切腹・・・事件では、大名間で結ばれた婚姻関係から徒党を成して謀反の準備をしていたのではないかとの疑いがもたれ、親交があったり、姻戚にあった大名家まで連座しようとして徳川家康の取りなしで事なきを得たが、秀吉は諸大名29名に秀頼への忠誠を血判で誓わせると、事件後の動揺を沈め、諸大名の統制を強めるために、大名間で許可無く婚姻を結ぶことを禁止し、誓紙を交わして同盟することを禁じるなど、5つの掟・・御掟(おんおきて)・・を定め、さらに公家や百姓にまで関わる一般的な統制のための9つの掟・・御掟追加・・を追加して発布した。
また、これらは豊臣家の重鎮家臣である大老(年寄衆)の徳川家康・宇喜多秀家・上杉景勝・前田利家・毛利輝元・小早川隆景の6名(連署順。本文中では若干序列が異なる)の連署とされており 、彼らの名前で発せられたので、豊臣政権において、秀頼が成人するまでの間、武家関白制に代わって、有力大名の年寄衆(隆景が亡くなったのち、五大老と呼ばれる)の合議制が国政を預かることを示した、最初の事例であるともされる。
御掟は豊臣政権の基本法としての性格を持っていたが、・・・1598年・・・に秀吉が亡くなると、五大老や五奉行みずからの手によって破られることになる。
合議制では大名間で決まり事を守らせる権威が不足していたため、むしろ頻繁に誓紙(誓書)が出されるようになった。輝元は浅野長政以外の五奉行と誓詞を交わしているし、利家や家康も度々五奉行全員や個別に有力大名と誓紙を交わしている。誓紙の取り扱いを規制する条項は形骸化した。
しかし家康が(秀頼および五大老全ての許可無く)六男松平忠輝と伊達政宗の長女五郎八姫との婚約、養女満天姫(松平康元の娘)と福島正則の嫡男正之との婚約、養女万姫(小笠原秀政の娘)と蜂須賀家政の嫡男豊雄(至鎮)との婚約を、それぞれ密かにまとめて、私婚を結んで主要大名や武断派と結託していたことは、御掟を破る明白な反逆行為として大きな問題となった。大坂の利家や五奉行は糾問使を(家康のいた)伏見城へ送ったが、家康は讒訴であると弁明し、武断派諸将が集結したことで、一触即発の事態を回避すべくこの一件は不問に処された。しかし結局のところ、これが豊臣家を分裂させる内乱、関ヶ原の戦いへと発展することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%8E%9F
⇒「注39」に登場する「大名間で結ばれた婚姻関係から徒党を成して謀反の準備をしていたのではないかとの疑い」の「謀反」とは具体的に何だったのか、かつまた、同じく「注39」に登場する、家康との「私婚」をやらかした三大名中、伊達政宗以外はいずれも豊臣家恩顧の大名達であり、よほどの理由があったと見なければならないところ、その理由は一体何だったのか。
これらについても、次の東京オフ会「講演」原稿に譲ります。(太田)
天皇に法の網をかぶせたのは江戸幕府が最初である。・・・
病床で・・・家康が望んだのは、太政大臣に就くことであった。
「大御所御病事危急につき」として拝任を願い出る書状を携えた使者が3月17日に駿府を出発し、東海道を3日半で駆け抜け20日に京都に着いた。
朝廷も異例の速さで対応し、翌21日に勅許を下している。
27日には広橋兼勝(大納言)と三条西実条(さねえだ)(同)が勅使として下向し、駿府城の本丸で家康に太政大臣宣下を伝達した。・・・
日本の武家は、官職・位階を帯びることによって、天皇を頂点とする身分体系に包摂されている。
一般に五位以上の位階とそれに相応する官職を帯びれば公家となり、三位<(さんみ)>・・・以上は公卿に列せられる。・・・
つまり武家=公家で、鎌倉幕府の成立から700年近く続いた武家政権の時期に純粋な武家は一人も存在しない。
この点、文官と武官が明確に分離し、科挙という試験制度によって登用される中国と事情を異にしている。
なお、試験制度をもたない日本は、官位制という身分秩序をもとに家格が形成され、個々の公家は天皇の臣下に位置づけられている。・・・
天下人である信長と秀吉は、武家でありながら征夷大将軍を志向せずに政権を樹立したが、生前・没後の違いがあるにせよ、ともに従一位・太政大臣という官位が授けられた。
征夷大将軍は令外の官で従三位が相当とされる官職であるから、家康は信長・秀吉の下位に置かれる。
天下人である家康は、このような事態を絶対に避けねばならなかったのである。・・・」(176、185~187)
⇒家康が本当にそう思っていたのであれば、「危篤」になってからではなく、もっと早い時期に太政大臣宣下を求めていたはずでしょう。
どうして家康は「方針変更」を行ったのか、追究して欲しかったところです。(太田)
(続く)