太田述正コラム#12323(2021.10.13)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(補遺2)(その2)>(2022.1.5公開)
・・・1598年・・・に秀吉が死去し、・・・1599年・・・に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに石田三成を襲撃しようと蜂起したり(七将襲撃事件)、子の至鎮と徳川家康の養女(外曾孫)・敬台院の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親家康大名として活動している。一方で[関ケ原の戦いの直前に
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E5%A7%AB ]
妹の糸姫が、嫁いでいた黒田長政から[家康の養女の栄姫(保科正直の娘)を新たに正室に迎え<るために>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF 前掲 ]
離縁されて蜂須賀家に返されると、蜂須賀家と黒田家の間は以後約120年間、不通大名となって交わりが絶えた。・・・
・・・1600年・・・の家康による会津征伐に際しては至鎮を従軍させ自らは大坂城に居残るが、これは病気が理由とも、親徳川派として留守を守るためとも言われる。三成らの反徳川決起後には領国の毛利輝元に向けて西軍参加を諫める書状を送る。しかし書状は行き違いとなり、大坂に上り大坂城を占拠した輝元により家政は逼塞させられる。蜂須賀領の阿波には毛利軍が進駐し、自身は剃髪し、蓬庵と号して高野山光明院に上る。軍勢は豊臣家の馬廻に編入されて毛利氏に預けられ、北国口の防衛に2000程の兵が向けられた(真田文書)が、この軍勢は交戦前に関ヶ原の戦いでの西軍敗北を知り、直接西軍に加担する事なく東軍に合流し、家康に同行していた至鎮の指揮下に戻る。関ヶ原の本戦で至鎮が東軍として参加していたため、戦後に家康から所領を安堵された。戦後、家督を至鎮に譲り、隠居した。
1614年・・・から始まった大坂の陣では、豊臣方からの誘いに「自分は無二の関東方」と称して与力を拒絶するとともに、駿府城の家康を訪ねて密書を提出している。冬・夏の陣で嫡男の至鎮が戦功を挙げたため、戦後に蜂須賀家は淡路一国を<加増さ>れ、25万7,000石に<にまでなっ>た。・・・
伊達政宗に「阿波の古狸(ふるだぬき)」と評されたという。・・・
⇒このように、狡猾に立ち回って、殆どゼロ・コストで豊臣家の滅亡に積極的に手を貸した家政だったわけですが、ノンポリで、確固たる信念を持ち合わせていなかった彼は、関ヶ原後、次第にこのことについて慚愧の念が募っていった、と、私は見ています。
その契機になったのは、上出の「盟友」黒田長政の背信行為だったのではないでしょうか。(太田)
豊臣秀吉の死後、形見の木像『木造 豊太閤像』が秀頼により家政と子至鎮に与えられた。家政が<1600年以降に>隠居して蓬庵となり、中田の地に別邸を建て<たが>、その近くに豊国神社を創建。豊臣秀吉の17回忌にあたる・・・1614年・・・のことである。
徳川家の力が大きくなるとともに神社の縮小や社殿取り壊し、神社名変更はあったものの、江戸時代を通じてひそかに祀り続けられる・・・
⇒これが、そう判断する第一の決め手です。(太田)
ディオゴ結城<(注1)>の影響でキリスト教を信仰し、洗礼を受けている。
(注1)ディオゴ結城(1574~1636年)は、「室町幕府13代将軍足利義輝の末弟の足利周暠の孫朝能(結城喜太郎)の可能性が高いといわれている。・・・
1586年)、摂津国高槻にあった司祭養成学校(セミナリヨ)に入り、勉学を始めたが、・・・1587年・・・に豊臣秀吉の指令でセミナリヨは移転を余儀なくされ、ディオゴは長崎で幽閉された。その後、幽閉先を脱出したディオゴは・・・1595年・・・に天草でイエズス会に入会。河内浦にあった司祭養成の高等機関(コレジオ)で学び、・・・1601年・・・に伊東マンショ、中浦ジュリアンと共にマカオに渡り、司祭になるための勉学を続けた。帰国後は畿内を中心に活動し、・・・1607年・・・には伏見の教会の仕事を任され、この年徳島藩主蜂須賀家政<ら>にキリスト教の教えを説いた。・・・
やがて、江戸幕府によってキリスト教が禁制になり、ディオゴは・・・1614年・・・高山右近らとマニラに追放された。ディオゴはマニラのイエズス会学校で勉学を続け、同地でついに司祭叙階を受けた。・・・1616年・・・、禁教下の日本で活動すべく極秘で長崎に渡り、陸路京へと向かった。こうして再び畿内において司祭として信徒たちを尋ね、秘蹟を授け、教え励ます活動を行うようになった。また、ディオゴはひそかに四国や江戸にまで足を延ばしていたと伝わる。・・・1619年・・・に京で幼児を含めた52名が殉教した「都の大殉教」が起こると、ベント・フェルナンデス神父やミカエル草庵とともに、残った信者らを励ましたり、遺体を葬ったといわれている。
その後、幕府の宣教師捕縛が徹底される中、ディオゴは山中で隠れて暮らしていたが、・・・1635年・・・阿波国大坂峠で捕縛された。翌・・・1636年・・・、大坂で穴吊りの刑を受け、3日後に処刑された。・・・2008年・・・11月に長崎で「福者」に列せられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B4%E7%B5%90%E5%9F%8E
⇒これは面白い。(太田)
・・・1619年・・・、法華宗要法寺二十二代大雄院日恩の教化を受け、東山に隠居寮を建てる。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF
⇒これが、そう判断する第二の決め手です。(注2)(太田)
(注2)但し、「墓所<は>興源寺(徳島県徳島市)」(上掲)で、「興源寺 (徳島市)<は、>・・・臨済宗・・・の寺院」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E6%BA%90%E5%AF%BA_(%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%B8%82)
なので、日蓮宗信徒にはならなかったようだ。
とまあ、こういう↑次第であり、家政が1607年以降に一時キリシタンになったのは、朝鮮出兵の際の、「盟友」転じて「仇敵」となった黒田長政がいかなる人物なのかを、長政同様にキリスト教に入信してから棄教してみることで理解しようとしたからに過ぎないのであって、彼は、隠居後、父親が仕えていた斎藤道三、や、自分が仕えた秀吉、の日蓮主義に遅ればせながら強く惹かれ、ついには事実上の日蓮宗信徒にまでなるとともに、秀吉を祀るに至った、というのが私の見方です。(太田)
(続く)