太田述正コラム#12325(2021.10.14)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(補遺2)(その3)>(2022.1.6公開)
3 その後の蜂須賀家
「子孫は徳島藩の外様大名として代々松平の名字を徳川将軍から授与され存続し、明治維新を迎えている。ただし、8代蜂須賀宗鎮から2代は高松松平家(水戸徳川家の御連枝)からの養子、10代蜂須賀重喜は秋田佐竹家からの養子で、元々の蜂須賀氏の血筋ではなかった。
また、13代藩主蜂須賀斉裕の実父が11代将軍徳川家斉であり、最終的には徳川将軍の血筋となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%B0%8F
こういう↑次第なのですが、引用前段に関しては、水戸徳川家からの養子入りではあっても、特筆すべきことは何もなさそうです。↓
「蜂須賀宗鎮(はちすかむねしげ)は、・・・1739年・・・、阿波徳島藩主・蜂須賀宗英の婿養子に迎えられる<。>・・・1754年・・・、隠居し、弟の頼央(改め蜂須賀至央)を今度は蜂須賀家の養嗣子に迎えて家督を譲った。宗鎮はそれまでに蜂須賀家の血筋から重矩、次いで重隆を養嗣子としていたが、重矩は早世し、重隆は廃嫡していた。しかし、至央は病気のためわずか60日余で没し、末期養子として出羽久保田藩佐竹家から重喜を迎えることになった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%97%E9%8E%AE
「蜂須賀重喜(はちすか しげよし)は、・・・、出羽<久保>田新田藩の第2代藩主・佐竹義道の四男<。>・・・1769年・・・、藩政宜しからずとして幕府より隠居を命じられ、長男・喜昭(のち治昭に改名)に家督を譲る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E9%87%8D%E5%96%9C
(佐竹氏から養嗣子を迎えたことについては、追究はしないことにしましたが、かつて、佐竹氏(義宣)は、1599年の豊臣七将の石田三成襲撃事件の際に石田三成を助けたり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%86
関ケ原の戦いの時に西軍の側に立ったり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E5%AE%A3_(%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%AB)
しているところです。)
そこで、蜂須賀斉裕以降についてだけ、取り上げてみました。
まず、蜂須賀斉裕(なりひろ。1821~1868年)についてです。↓
「1827年・・・、徳島藩12代藩主・蜂須賀斉昌の養子となる。斉裕の父<は、徳川>家斉・・・
藩主となった斉裕は、藩政改革に取り組むことにした。まず、藩士の知行を3割削減し、領内の特産品である染料と藍を扱う大商人に献金を求めた。さらに藩の軍制をイギリス式に改め、海防に力を注いだ。
淡路島の岩屋や由良(現淡路市)に砲台を建築するなど、海防においては多くの功績を挙げている。このため、幕末の動乱期に、斉裕は幕府が新たに設置した役職である海軍総裁・陸軍総裁に兼務任命<1863>年12月18日・・・されている。しかしこのための出費が凄まじく、短期間で海軍総裁・陸軍総裁は廃止されたが、徳島藩の財政は破綻寸前になった。
斉裕は徳川将軍家の一族であったが、幕末の幕政とはある程度の距離を置いていた[要出典]。海軍総裁・陸軍総裁に任命されたが短期間で廃止になったのも、斉裕が幕府とあまり関わりあいたくなかったからだとも言われている[要出典]。斉裕は幕末期、公武合体を目指して京都などに家臣を積極的に送り込んでいる。
⇒斉裕は、実父の家斉譲りの日蓮主義者っぽいですね。
たまたま、養子先も、日蓮主義ゆかりの家だったわけです。(太田)
しかし、洲本城代の稲田氏(蜂須賀家の筆頭家老)をはじめとする家臣団の多くから公武合体に対して批判的な意見が多く、藩論を統一することができなかった。幕末において徳島藩が名を残すことができなかったのも、藩論統一が成されなかったためと言われている。・・・
<1868年>1月6日(鳥羽・伏見の戦い中)、48歳で急死し、跡を次男の茂韶が継いだ。
「勤皇にして佐幕」「開国派にして攘夷論者」の立場のあいまいさが、斉裕を「御内鬱」と記されるような精神状況に追い込み、英明であるが故に精神的な鬱積を酒でまぎらわせ、結果的にアルコール中毒症を患った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%96%89%E8%A3%95
⇒徳川慶喜も斉裕と同じような心境だったと思われますが、その精神は、斉裕とは違って、極めて強靭であった、ということになりそうです。(太田)
最後に、蜂須賀茂韶(もちあき。1846~1918年)です。↓
「父の急死により家督を継ぐ。斉裕の危篤から死去が鳥羽・伏見の戦いの最中であったことから、藩内は大混乱をきたした。その後の戊辰戦争では新政府側に与して奥羽にも兵を送ったが、相次ぐ藩内の混乱のため、新式のイギリス軍備を導入していたにもかかわらず少数の藩兵しか送れず、諸藩からの冷評を受けたとまで言われている。
⇒「藩内の混乱」は口実であって、要は、徳川慶喜同様、最小の流血で、新政府の樹立を図った、ということでしょう。(太田)
明治維新後はオックスフォード大学に留学した。
明治15年(1882年)から同19年(1886年)まで駐フランス公使(スペイン・ベルギー・スイス・ポルトガル公使も兼務)。帰国後、第11代東京府知事(1890年 – 1891年)、第2代貴族院議長(1891年 – 1896年)、文部大臣などを務め、麝香間祗候の待遇を受ける。
藩祖である蜂須賀小六正勝を大名にまで引き立てたのは豊臣秀吉であった縁から、旧福岡藩主家当主黒田長成(藩祖黒田官兵衛孝高を大名に引き立てたのはやはり秀吉である)を会長として結成された豊国会の副会長を務め、豊国会が京都東山の豊国神社に豊臣秀吉廟を建立したおりには、黒田とともに燈籠を寄進している。
⇒両家は過去の遺恨を完全に乗り超えた、ということのようで・・。(太田)
芝区三田綱町の蜂須賀家所有地の一部は慶應義塾に売却されて綱町グラウンドとな<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%8C%82%E9%9F%B6
⇒かつて、慶應義塾大学三田キャンパスの近傍の丘の上の一戸建ての防衛庁三田官舎に住んでいたこともある私と、蜂須賀家とは、袖すり合うご縁くらいはあったんですね。
(完)