太田述正コラム#12327(2021.10.15)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その20)>(2022.1.7公開)
「家康の一周忌にあたる・・・1617<年>・・・4月17日、・・・東照大権現の神号と正一位の神階が授けられ<た>家康は・・・東照社<に>・・・祀られた・・・。・・・
東照社は、・・・1645<年>に宮号宣下を受け、東照宮と名称を改めたが、とくに家康の命日には公家・武家をはじめ一般庶民までの多くの人々が参詣している。
これを日光社参という。
歴代将軍も、のべ19回の日光社参を行っているが、その過半にあたる10回が三代家光である。
ちなみに二代秀忠が4回、四代家綱が2回、八代吉宗・十代家治・従二代家慶が各1回となっている。
家光の祖父家康への崇敬ぶりをうかがわせる・・・。
⇒社参を行っていない将軍の方が多いわけですが、家斉の理由については私見を申し上げたことがある(コラム#省略)けれど、他の諸将軍も含め、三鬼の見解を聞きたかったところです。(太田)
この日光社参は、あたかも軍事動員のような完全武装の態勢をとって行われた。・・・
朝廷は家康の命日に例幣使<(注40)>を発遣して東照宮に幣帛(神前の供物)を捧げた。
これまで途絶えていた伊勢神宮への例幣使を幕府が復活させることと引き替えに・・・1646<年>に制度化されたものである。
(注40)「中世以降、伊勢神宮の神嘗祭に対する奉幣のことを特に例幣(れいへい)と呼ぶようになった。例幣に遣わされる奉幣使のことを例幣使(・・・日光例幣使と区別して伊勢例幣使とも)という。・・・
朝廷の衰微とともに次第に縮小・形骸化され、応仁の乱以降は伊勢神宮への奉幣を除いて行われなくなった。17世紀半ばから江戸幕府が朝廷の祭儀を重んじるようになり、・・・1744年・・・、約300年ぶりに二十二社の上七社への奉幣が復興された。・・・1646年・・・より、日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始まった。江戸時代には、単に例幣使と言えば日光例幣使を指すことの方が多かった。
日光例幣使にとって、当時日光へ出向くことは大変な「田舎道中」であり、一刻も早く行って奉幣を済ませて帰りたいという心理があり、また道中で江戸を経由することとなると幕府への挨拶など面倒も多かったため、例幣使は往路は東海道・江戸を経由せず、中山道~倉賀野宿~例幣使街道という内陸経由で日光に向かった。帰路は日光街道で南下し江戸を経由して東海道にはいり帰京するのが慣習であったが、・・・1776年・・・と・・・1843年・・・には帰路も中山道を使っている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%B9%A3
家光は、・・・1634<年>から2年の歳月をかけて東照宮の大改造を行い、現在に近い姿となった。・・・
家康が東照大権現として神に祀られたことにより、秀吉は神の座を追われた。
⇒三鬼が、ひねってあえてこう書いたとは思えません。
「1615年・・・に豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により・・・、後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、神社自体も廃絶された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
後の1616年に家康が亡くなり、後水尾天皇から東照大権現の神号が授けられたのは、更にその翌年の1617年です
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%A4%A7%E6%A8%A9%E7%8F%BE-580581
から、校正ミスでしょうね。(太田)
大坂夏の陣直後の・・・1615<年>5月、幕府は豊国廟一帯を破却し、豊国大明神の神体を方広寺大仏殿の境内に移す方針を決定し・・・、7月10日に実行された。
これを伝える金地院崇伝と板倉勝重の連署状には「豊国御改易」という文言がある・・・。
豊国社の社領はすべて没収されたが、社務職の萩原兼従(吉田兼見の孫で、のち養子となる)は細川忠興のとりなしで豊後国で1000石の知行が与えられ、かろうじて存続が許された。」(192~194)
⇒後水尾天皇(注41)は、豊国大明神の神号の剥奪はともかく、東照大権現の神号の授与については複雑な思いだったでしょうね。
(注41)「遺諡<(いし)>により後水尾と追号された。水尾とは清和天皇の異称である。後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして実質的に廃位に追い込まれた陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称「水尾」の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。このような父子逆転の加後号は他に例がない。徳川光圀は随筆『西山随筆』で、兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であり、この諡号を自ら選んだ理由であろうと推測している。遺諡は、鎌倉時代の後嵯峨天皇から南北朝・室町時代の後小松天皇にかけて多くあったが、その後7代にわたって絶えており、後水尾天皇の遺諡は後小松天皇以来約2世紀ぶりである。このことからも後水尾天皇の強い意志が伺われる。また、清和源氏を称する徳川氏の上に立つという意志も見て取れる。・・・
なお、・・・日光東照宮には陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる額が掲げられており、後に板垣退助が強硬に日光東照宮の焼き討ちを要求する薩摩藩を説得する理由の1つとして挙げたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87
このような家康の同天皇への姿勢を秀忠は忠実に受け継ぎ、同天皇に恥辱を与えること再三でしたが、こういったことも、徳川幕府瓦解の伏線的要因の一つになったと言えるでしょうね。(太田)
(続く)