太田述正コラム#12329(2021.10.16)
<2021.10.16東京オフ会次第>(2022.1.8公開)
1 始めに

 コロナ禍でオフ会も打撃を受けた形で、緊急事態宣言明けにもかかわらず、参加者は6名、うち2名はスカイプ参加、でした。

2 2021.10.16東京オフ会次第

 (1)プロローグ

 「講演」は、本日のディスカッションに掲載した、修正表、と、信長・光秀・秀吉・三成・家康の旗印と馬印(馬標)、を中心に行いました。
 後者は、TV画面に、図柄をHDMI出力をして行ったのですが、スカイプ組には見えなかったようで、今後、気を付けたいと思います。
 
 (2)質疑応答(O:は私。順不同。A以下は、同じアルファベットが、同じ人を意味するとは限らない。

O:三好長慶は、旗印、馬印、の類を使用しなかったのではないか。
 それだけでも、長慶は、世代的に、1522~1564年、なので、信長(1534~1582年)と殆ど同世代人ではあるのだけれども、前時代の人だった、と言えそうだ。
A:旗印と馬印の違いは?
O:前者は敵味方識別のためのものだから、戦いの際には、背中にしょわせたりして何本も使用されたのに対し、後者は部隊の司令官の所在場所を示すためのものだから、戦いの際には原則1本しか使用されなかった。
 ちなみに、家康は、三方ヶ原の戦いの時と大坂夏の陣の時の2回、馬印を倒されたとされていて、なおかつ、どちらの時も生き残ることができた
https://www.touken-world.jp/tips/43247/
幸運な人物らしい。
 なお、家康の旗印も馬印も、その独創性は、天才であった織田信長・豊臣秀吉、と、鈍才であった明智光秀・石田三成、の間で、並才、といったところか。
 次回の東京オフ会で家康を取り上げる際には、彼について、並才が運に恵まれて天下を取った、的な評価をすることになりそうだ。
B:「講演」原稿、今回は、PDFで130枚にもなったが、次回までは期間短いこともあり、50枚程度に抑えてもらえるとありがたい。
O:承っておく。
C:「講演」原稿の中で、秀吉の唐入りに対する徳富蘇峰
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0
の見解が批判されているが、手元にあった、『近世日本国民史』の該当部分に直接あたってみたら、この批判が必ずしも正しくないことが分かった。
O:ぜひ、もう少し詳しく、急がないのでメールで教えて欲しい。
C:了解。なお、この本は渡部昇一が絶賛している。
O:唐入りと言えば、着手前の(明の状況を含む)国際情勢における日本側優位に加えて、どの戦いをとっても、朝鮮・明側に、先の大戦中の、太平洋における日米それぞれの戦死者比に勝るとも劣らない勝ちっぷりを日本側がしており、これでは、加藤清正ならずとも、どうして日本側が目的を達成できなかったのか、首をひねらざるをえない。
B:戦後の日本人は、唐入りは目的を達成できなかったのだから敗戦、先の大戦では目的を達成できたけれど個々の戦いでボロ負けしたので敗戦、と思い込んでいるが、前者と後者とで、論理が一貫していない。
 結局のところ、外征は全て悪であって敗戦で終わらなければならない、ということなのだろう。
O:その通りだ。
 清正部隊は、無人の野を進むがごとく朝鮮半島を北上し、満州にまで突入しているが、その間、日本側の他の全部隊が、もたもたして前進すらままならなかったことに、清正が疑念を抱いたのは当然だろう。
C:明側の史料だって、明軍がボロ負けしたことを認めている。
O:茶道に対する違和感について書いたがどう思った?
B:昔読んだものの中で、架空の話だとは思うが、利休に信長と秀吉が茶を立ててもらった時、秀吉が一息で茶を飲みほしたのを信長が咎めたところ、利休が、形にこだわる必要は全くない、的なことを言って秀吉をかばったというのだが、そんなことは、そもそもありえない、というわけだな。
O:そうだ。
 忘れないうちに、困っていることを申し上げておく。
 今まで、私が突然死した時に、私のコラム等の著作権の管理をお願いしていた某有料読者と最近連絡がとれなくなっている。
 どなたか、自分が引き受けてもよい、という方はいないか。
D:私でよければ。
O:では、遺言書を書き換えておくので、よろしくお願いする。