太田述正コラム#12337(2021.10.20)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その22)>(2022.1.12公開)

 「1605<年>4月、家康が将軍職を辞したとき、源氏長者と奨学院別当は帯びたままであった。
 二代将軍となった秀忠は、淳和院別当に補せられただけで、実権は依然として家康が握っていたのである。
 これは、家康が宿願を達成するための止むをえない措置であったと思われる。

⇒氏の長者は、同じ氏の者全員に対して、統率権を有するというタテマエ
https://kotobank.jp/word/%E6%B0%8F%E3%81%AE%E9%95%B7%E8%80%85-439620
ではあっても、同じ氏の特定の者に対し現実に統率権を行使できるかどうかは、時代、状況、その者との関係、等いかんによったと思われますが、(この前のオフ会の「講演」原稿に入れ忘れ、オフ会での質疑応答の際に言及しておいたところの、)「秀次<が>関白に就任して、同時に豊臣氏の氏長者となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
という事実は重いのであって、仮に秀吉が現役の(オールマイティの昔ながらの)太政大臣でなければ、「公」の立場においてはもちろん、「私」の立場においてすら、秀次を詮議したり切腹に処したりすることなどできなかったはずです。
 家康と秀忠の場合、家康が「公」に奨学院別当として淳和院別当に統率権を行使できたとは思えないけれど、「私」に、氏の長者として、同じ氏の、しかも、子でもある秀忠に対し、引き続き統率権を行使することができたわけです。(太田)

 しかし、大坂城が陥落して旧主にあたる豊臣家が滅亡したのち<、>・・・家康<は>隠居を決意し・・・源氏長者の地位を秀忠に譲る<つもりになっ>たと思われる。・・・
 しかし家康は、<その>・・・機会を失した<まま、>・・・病に罹り、回復しないまま詩を迎えた。・・・
 家康の晩年を描いた小説・評伝のうちで最も実像に近いと思われる作品<として>、・・・私としては、明治~大正前期に異色のジャーナリストとして活躍し、在野の史論史家としても著名な山路愛山<(注45)>の『徳川家康』<(注46)>を挙げたいと思う。・・・

 (注45)1865~1917年。「微禄の幕臣の子として・・・江戸に生まれる。幕府滅亡後静岡に移り、静岡英語学校、東洋英和学校に学ぶ。一時牧師を務めたが、1892年(明治25)には『国民新聞』記者となり、同紙や雑誌『国民之友』に史論、評論を発表し、また北村透谷や高山樗牛と論争した。99年『信濃毎日新聞』主筆、1903年(明治36)には『独立評論』を創刊。05年には斯波貞吉、中村太八郎(たはちろう)らと国家社会党を結成し、のち普通選挙期成同盟会評議員となるなど、社会運動にもかかわった。反骨精神をもち在野の人として通したが、その思想は儒教とキリスト教に発し、ナショナリズムに移り、社会主義にも理解を示し、独自の国家社会主義思想に到達した。・・・
 晩年は『源頼朝』(1909)や『徳川家康』(1915)など英雄伝記の執筆に精力をそそいだ。足利尊氏の業績を評価した『足利尊氏』(1909)は,44年南北朝正閏論問題に関連して,不適当な歴史書として筆禍事件に巻き込まれた。愛山の生涯の思想を貫いたのは,個人の独立と自主性を何よりも尊ぶ姿勢であった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E8%B7%AF%E6%84%9B%E5%B1%B1-21893
 (注46)1915(大正4)年、独立評論社から出版。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950963

 愛山は家康を徹底した力の信奉者とみなしていた。
 信長や秀吉は天皇の権威を巧みに利用して自己宣伝に努め、たとえば安土築城や朝鮮出兵といった周囲の目を引くような大仕事を成し遂げたが、家康はみずからの力のみを頼りに地道な動きをしていた。

⇒家康を庇護し続けた織田信長と家康の源への氏の変更に協力した近衛前久(典拠省略)、なくして、家康の天下取りはありえなかったのであり、「地道」だったかどうかはともかくとして、家康が、「みずからの力のみを頼りに」した人物でなかったことは明らかでしょう。(太田)

 また、力の信奉者といっても残忍・冷酷な性格ではなく、たとえば関ヶ原の戦いでは、敵将の宇喜多秀家を助命して八丈島に送り、大坂の陣で牢人となった者には仕官の道を開くなど人情味ある面もみられたという。・・・
 敗者の痛みや悲哀を身をもって実感している愛山は、その感情を秘めながら、崇拝してやまない家康を、時代が生み出した英雄として描きだしたい衝動に駆られていたと思われる。

⇒「愛山<が>・・・家康を崇拝してやまな」かったのだとすれば、それだけで、愛山の『徳川家康』は読むに値しないでしょう。
 愛山は、「内村<鑑三>が明治28年(1895年)に・・・「余は如何にして基督信徒となりし乎」をもじった・・・鑑三への<その>・・・君子豹変<をなじった>・・・公開状ともいうべき・・・「余は何故に帝国主義の信者たる乎」<を発表、・・ちなみに、>・・・内村は日清戦争については「義戦」として評価していたが、その後の戦禍について平和主義に傾き、日露戦争開戦前には非戦論を主張していた。・・<更に、愛山は、>明治37年(1904年)2月、日露戦争勃発と同時に『日露戦争實記』を発刊し、「草木皆兵」を論じ、愛国心の鼓舞につとめ<、>4月には『戦争に於ける青年訓』を刊行した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%B7%AF%E6%84%9B%E5%B1%B1
ところ、家康は、(愛山にその自覚があったかどうかはともかく、)日蓮主義者と化した愛山が崇拝するなどもってのほかの、反日蓮主義者だったのですからね。(太田)

 それは、旧幕臣の血を引く在野の史論史家としての自己に課した使命でもあった。」(205~207、209)

(続く)