太田述正コラム#12339(2021.10.21)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その23)>(2022.1.13公開)

 「・・・戦前と戦後に係れた二篇の児童書を取り上げる。・・・
 森銑三<(注47)>(せんぞう)・・・が・・・<彼の>『徳川家康』<で>・・・強調したかったことは、家康が豊臣家を滅ぼしたのは彼の本心からではなく、事柄の行き違いによるもので、家康は慈悲深い人物だということである。

 (注47)1895~1985年。「刈谷尋常小学校<卒。>・・・31歳となった1925年、東京・上野にあった文部省図書館講習所(のち図書館情報大学、現:筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)に入学<、>・・・翌年・・・卒業し、・・・東京帝国大学史料編纂所の図書係となり・・・1939年、在職13年で編纂所を退職。・・・1970年から1972年にかけて、『森銑三著作集』全13巻が刊行された。1972年に読売文学賞を受賞。・・・
 後半生は井原西鶴の研究に注力し<、>・・・実際に西鶴が書いたのは『好色一代男』ただひとつであ<ると主張したが、>・・・<この>森説は否定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%8A%91%E4%B8%89

⇒この本は森の没後の1991年に刊行されている(上掲)ところ、少なくとも元の発表形態を三鬼は記すべきでした。(太田)
 
 当時は明治維新から半世紀ほど隔たっていたが、「反徳川史観」は根強く残っており、主従道徳尊重される時代状況下にあった。

⇒「当時」が、「戦前」のいつだったのかも、三鬼は記すべきでした。(太田)

 森がこのような主張を展開するには勇気が要ったことと思われる。・・・

⇒森の反骨性を賞揚するのであれば、なおさら、森が三河出身者・・刈谷は西三河・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%88%E8%B0%B7%E5%B8%82
で、徳川家康は郷土出身であることや、森に「尾張徳川家蓬左文庫主任」経験があること、
https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E9%8A%91%E4%B8%89-646874
の影響があって、家康を顕彰したかったという可能性についても、三鬼には、一言でいいので触れて欲しかったところです。(太田)

 松本清張<(注48)>は、・・・<彼の>『徳川家康』<で>・・・「家康ほど幼いときから苦労した人間はいない」と述べている。

 (注48)1909~1992年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%B8%85%E5%BC%B5

⇒「注48」で紹介したウィキペディアは、ちょっと呆れるほどの分量のものです。
 今回のオフ会の質疑応答の際に、出席者から、相変わらず杉山元のウィキペディアはスカスカのままだ、という話が出ていましたが、松本「清張は「わたしの書く「歴史」ものでは、古代史と現代史関係が多く、その中間が抜けている。・・・これは「よく分からない」点に惹かれているからだろう。古代史には史料が少ないために、現代史は資料が多すぎるがその価値が定まっていないために、どちらも空白の部分がある。「歴史」はやはり推理の愉しさがなくてはならない」と述べている」(上掲)ところ、松本の『昭和史発掘』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%8F%B2%E7%99%BA%E6%8E%98
を始めとするノンフィクション作品群の中に、杉山元を正面から取り上げたものはなさそう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%B8%85%E5%BC%B5%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7
なのは残念です。
 「現代史」中の昭和史を中心的人物として生き抜いた杉山については、にも拘わらず、「資料が多すぎる」どころか、極めて少ないわけであり、その点に松本清張だったら気付いて、杉山に注目して欲しかったところです。(太田)

 三歳で母に別れ、6歳で織田家に売られ、8歳からの12年間は今川家で人質生活を送り、忍耐と苦悩の日を送っていた。
 <松本清張は、>おそらく、高等小学校を出てから給仕や印刷工として働き、辛酸をなめながら向学心を燃やしていた若かりし頃の自分の姿を家康と重ね合わせていたのであろう。」(210~211)

(続く)