太田述正コラム#12341(2021.10.22)
<三鬼清一郎『大御所 徳川家康–幕藩体制はいかに確立したか』を読む(その24)>(2022.1.14公開)
「清張が家康に高い評価を与えているのは組織者としての卓越した力量で、それが徳川300年の礎を築く要因とみなしている。
信長や秀吉は個人としては優れているが、忍耐力は家康に及ばず、とくに秀吉は家康に一目置いていた。
⇒「とくに」以下の「典拠」は、『徳川実紀』(コラム#11440)に出てくる、曽呂利伴内が家康から聞いた大黒天の話を秀吉に伝えた時の秀吉の言
https://intojapanwaraku.com/culture/163191/
としか考えられませんが、伴内は、「生没年不詳<で、>・・・実在したかどうか<が>あきらかでない」人物
https://kotobank.jp/word/%E6%9B%BE%E5%91%82%E5%88%A9%E6%96%B0%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80-18512
であり、フィクションだと思った方がいいでしょうね。
それ以外の、清張の家康評も推して知るべしです。(太田)
家康は秀吉から天下を受け継いだようにみえるが、そうではない。
家康が秀頼に天下を譲らなかったことは当然で、これをもって秀吉に同情を寄せ家康を非難することは「感情論にすぎない」とまで言い切っている。
一方で清張は、家康がキリシタンを恐れるあまり鎖国策をとって世界への窓を閉ざしたことを欠点とみなしている。
しかしそれは、幕府と言う組織を守るための必然的な措置で、大名から反逆者を一人も出さなかったことをもって是とすべしというのが真意であろう。・・・
<話は変わるが、>小林正信<(注49)>『織田・徳川同盟と王権』(岩田書店、2005年)によれば、信長は家康を東国支配の役職である征夷大将軍に据え、みずからは太政大臣として政権を築く構想を抱いていた。
(注49)1962年~。愛知県春日井市生。名大卒? 九大博士(比較社会文化)。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%AD%A3%E4%BF%A1_200000000398591/biography/
この関係は江戸時代の幕藩体制の母体となるものであるという。<(注50)>」(211~213)
(注50)「正親町帝は、即位以来、朝廷の衰微により葬礼すら滞る現状に怒り、幕府に無断で改元し、キリシタンもその意向によって追放するなど武家政治の統治権に公然と介入しただけでなく、「公家一統」の政治を目論んでいたからです。
帝は、松永久秀、毛利元就など義輝政権と対立する武家を取り込み、天正二年には信長を関白にして、天皇と関白が一体化した「公家一統」の政治を実現しようと試みました。この思惑が失敗したことから、帝は信長の家臣であった秀吉をその地位に就けることになった、と考えられます。
信長は、幕府の朝廷政策を批判し、経済的は支援しましたが、帝の要請を拒絶しただけではなく、九年間も譲位を要求し続け、帝の側近竹内三位を殺し、朝山日乗を追放し、さらに比叡山を焼き討ちにし、日蓮宗を追放するなど、朝廷の支持基盤に対して躊躇なく弾圧しました。そして信長は誠仁親王を擁立して、朝廷を上御所と下御所に分断します。それでも帝は譲位せず、天正九年に左大臣推任の際、信長が帝の任命権を否認すると、信長の更迭を決意したと思われます。
光秀の盟友細川藤孝は幕府御供衆であったという経歴とともに、天皇の侍従でもありましたが、その両属性が、ここで問われることになります。帝の側近で王政復古を信長によって成し遂げようとした三条西実澄と藤孝は古今伝授の秘伝によって、強い師弟関係にありました。
光秀は、無防備なまま主だった重臣たちを引き連れて堺に来ていた家康を取り逃がした段階で、破滅します。なぜなら東部で家康率いる三河・遠江・駿河の軍勢による逆襲が確実となり、その敗北は決定的です。本来光秀に味方するはずの畿内周辺諸勢力は躊躇し、その上これに備えるために、明智秀満などを東部に配置せざるをえず、西部に軍勢を集中させることができませんでした。
家康一行の逃亡の成功は、偶然でも不可抗力でもなく、深刻な裏切りとしか考えられません。
事件前後、藤孝の所在は、5月中旬から6月9日まで不明ですが、米田求政、里村紹巴、津田宗及、大村由己、吉田兼見など連歌会の常連、実澄の弟子でもある藤孝周辺の文化人グループが、活発に動き回り、その政治的な方向性は、藤孝や帝と同じであり、彼らは秀吉とも通じていました。・・・☆
幕藩体制の原型は、本来、信長が平家・太政大臣として公武を統括して室町殿の支配領域を継承し、家康が関東の公方の領域を引き継いで、征夷大将軍となる武家独裁の支配体制にありました。この信長の政権構想は、大御所家康と将軍秀忠、大御所秀忠と将軍家光の関係と同じ類型であり、織田・徳川同盟が幕藩体制の基礎となった<のです。>」(小林正信「学位論文および近著『正親町帝時代史論』骨子」より)
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ohgimachi.pdf
⇒三鬼の記述は、名大時代の(?)自分の弟子である小林正信
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%AD%A3%E4%BF%A1_200000000398591/biography/ 前掲
の、典拠こそ異なれ、「注50」の☆以下の結論部分を鵜呑みにしたものですが、そのこともさることながら、それは☆より前の部分の、小林の正親町天皇本能寺事件黒幕論と一体の主張であるところ、本当に三鬼は、この(太田コラムを読み込んでこられた読者諸公にはすぐ分かるような諸事実の歪曲、の上に成り立っている)トンデモ陰謀論を信じているのでしょうか。(太田)
(完)