太田述正コラム#12345(2021.10.24)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その2)>(2022.1.16公開)

 「小著の主題は、慶長年間から寛永年間(1624~44)におよぶ「藩」誕生過程の検討を通じて、地域社会における江戸時代のはじまりを描写することにある。
 なお、江戸時代には藩という表現は稀<(注2)>で、「国」や「家中(家中)」などと呼んだことを、あらかじめ断っておきたい。

 (注2)「新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』等<。>・・・元々「藩」という語は、古代<支那>で天子である周の王によってある国(同時代の華北で国とは邑と称せられる都市国家)に封建(既存の都市国家の統治制度の追認、もしくは親周勢力の族組織単位での軍事入植)された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれになぞらえて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた(と観念された)大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。あくまで江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9
 「藩=・・・将軍から石高1万石以上の土地を宛行(あてが)われた・・・大名<、>の数は、江戸時代を通じて260前後に上る。これを藩成立の事情から分類すると、旧族大名、織豊取立(しょくほうとりたて)大名、徳川取立大名の三つとされ、一般には前二者を外様大名とした。
 徳川取立大名は親藩と譜代に分かれ、親藩はさらに御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(田安、一橋、清水)、家門(かもん)、連枝などに分けられる。
 また、大名は、城地の有無、領域の規模にしたがって、国主(こくしゅ)(国持(くにもち))、準国主(国持並(なみ))、城主(城持(しろもち))、城主格(城持並)、無城に分けられ、あるいは江戸城中の詰間(つめのま)により大廊下(おおろうか)、溜間(たまりのま)、大広間、帝鑑(ていかん)間、柳(やなぎ)間、雁(かり)間、菊間などに分ける場合もあり、さらに官位や石高の大小によっても分けられた。
 1792年・・・の『大成武鑑(たいせいぶかん)』によると、大名領の石高は約1800万石であったが、親藩・譜代大名の石高と外様大名の石高はほぼ折半されていた。なお、全国の総石高のうち藩によって占められる石高の比率は約71.5%となっていた。
 この『大成武鑑』による大名数は256藩で、うち親藩は12藩、譜代大名は144藩、外様大名は100藩となるが、大名の主体は帝鑑、雁の両間に詰める譜代の106家で、その1家当り平均石高は5万石前後であった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A9-117798
 「雁の間<は、>・・・譜代三万石以上、一〇万石以下の大名の詰所にあてられた広間。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%81%E3%81%AE%E9%96%93-235112
 「帝鑑の間・・・に詰める諸侯を「帝鑑間詰」という。越前庶流、10万石以上の諸大名および交代寄合その他がこれに属する。慶応2年の武鑑によれば、家門4家、譜代60家、合わせて64家が挙げられている。石高は1万石ないし10万石余、そのうち5万石およびそれ以上のものが28家、その他は5万石以下である。無城のものが10家である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%91%91%E3%81%AE%E9%96%93
 「柳の間<は、>・・・四位以下の大名および表高家(おもてこうけ)の詰め所。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B3%E3%81%AE%E9%96%93-648829

 「藩」とは、一般的には幕末から明治4年(1871)の廃藩置県の時期に普及した呼称である。・・・」(iii)

⇒1792年時点で、石高の28.5%を占めた天領(注3)をどうしてくれる、と言いたくなります。(太田)

 (注3)「天領<は、>・・・正式な歴史用語ではない。・・・幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは・・・大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまりである。その後、天領の呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。
 江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)だった。その他、江戸時代の幕府法令には御料所、代官所、支配所の呼び名もある。江戸時代の地方書では、大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所という呼称もあった。・・・
 江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%A0%98

(続く)