太田述正コラム#12355(2021.10.29)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その7)>(2022.1.21公開)
「・・・戦国時代以来うち続く戦争によって、地域社会は相当に荒廃していた・・・。
大規模戦争は、労働の担い手だった若者を傭兵<(注11)>すなわち足軽以下の雑兵<(注12)>として戦場に動員した。
(注11)日本の傭兵としては、「規模は小さかったものの南北朝時代には海賊衆と言われる水軍勢力や悪党・野伏・野武士と呼ばれる半農の武装集団や雑兵(広義的な足軽。中には、戦は二の次にして、乱妨取りばかり行うケースが多く存在した。)などが比較的ポピュラーであったほか、雑賀・根来などの鉄砲、伊賀・甲賀の忍術といった特殊技能集団が傭兵的に雇われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%AD%E5%85%B5
(注12)ぞうひょう。「部下を指揮する立場の無い、一番下っ端の兵隊のこと。・・・似た存在に足軽がおり、両者の違いは足軽は武士の正規の配下で身分は百姓であるのに対し、雑兵はその戦闘限りの傭兵である。その構成は食糧難に喘ぐ百姓やゴロツキ、身寄りの無い乞食等の自主参加が主であり、彼らの目的は、その戦闘に勝った際に許される、近隣の人里からの食糧や金銭の略奪、奴隷狩りである。彼らにとっては軍功を挙げることは二の次三の次だった。このほかに山賊・海賊、果ては野武士など多岐にわたり、雑兵=百姓というわけでは無い。」
https://dic.pixiv.net/a/%E9%9B%91%E5%85%B5
「乱妨取り(らんぼうどり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取・乱捕)と呼称された。・・・
当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。人身売買目的での誘拐は「人取り」と呼ばれ、戦後に物と同じく戦利品として市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、褒美として付近を自由に乱取りさせた。それら狼藉は悪事ではないとされた。 たとえ有力大名といえども農閑期に無給で徴用し、命のやり取りを行わせた足軽に「乱暴取り」を禁ずることは困難であった。しかし早くから兵農分離を行い、足軽に俸禄をもって経済的報酬を与えていた織田信長、豊臣秀吉などは「乱暴取り」を取り締まり、・・・厳罰によって徹底させることが可能であった。・・・
織田信長の桶狭間の戦いでの勝因を、「民家への略奪行為で油断する今川方を急襲したから」とする説を、黒田日出男東京大学名誉教授が唱えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E5%A6%A8%E5%8F%96%E3%82%8A
⇒「注12」から、雑兵は金銭が支給されて戦闘に参加するわけではないのであって、「傭兵的なもの」ならともかく、藤田のように、「傭兵」と言い切るのはいかがなものでしょうか。(太田)
侵略を受けた地方の村々は焦土と化し、消滅・移動したものも少なくなかった。
地域社会は、深刻なダメージを受けたのである。」(8)
⇒藤田はこのあたりの記述を裏付ける例すら一つも提示していませんが、「鎌倉幕府が開かれた12世紀末には600万人ほどだった人口が、戦国時代の終わる16世紀末には1200万人に達し、400年間でほぼ倍増したことが分かっています。爆発的な人口増の背景には、それだけの人間を養うだけの生産力が確保された事実があります。それこそ戦国大名の富国強兵策によって国土が開発され、日本が豊かになった証拠といえます。豊かになった国土を耕すのは武士ではありません。人口の8割を超える「庶民」が新たな時代の〝表舞台〟に躍り出てきたともいえます。中世までは搾取の対象とみられていた庶民ですが、戦国大名の中には北条早雲のように「五公五民」だった年貢を「四公六民」に改めて領民を保護する者も出てきます。
我が国の農業は古くから稲作中心ですが、戦国後期になると、・・・商品作物や特産品の栽培・生産が奨励されるようになりますが、稲作に不向きだった土地が開墾されたことも要因の一つに挙げられます。商品作物の増産による変化としては、木綿の衣料が普及し、着物のルーツとされる「小袖」が一般的となったことも挙げられます。・・・前代までは上流階級は絹、庶民は麻が中心でしたが、服装に関しても選択の幅が広がった時代といえます・・・。
<支那>の明との貿易を含め、経済活動が盛んになったのも戦国期の特徴です。「楽市楽座」と呼ばれる市場振興策が各地で展開され、物流も活性化。経済の興隆は貨幣経済の進展も招き、輸入された永楽銭が各地で流通したほか日本初の金貨「甲州金」も鋳造されました。その下地には、掘削技術の発達による鉱山開発があったとされます。」(矢部健太郎(注13)「・・・豊かな戦国を支えたイノベーション」より)
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/171751
といったものが通説であることくらいは、少なくとも言及して欲しかったところです。(太田)
(注13)1972年~。國學院大文(史学)卒、同大博士、防大専任講師、國學院大専任講師、准教授、教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%83%A8%E5%81%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E
(続く)