太田述正コラム#12359(2021.10.31)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その9)>(2022.1.23公開)
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[武家社会における恩給]
「鎌倉幕府が成立し、鎌倉殿(征夷大将軍)と御家人の間に御恩と奉公の関係が確立されると、・・・御家人は鎌倉殿より、幕府成立以前からの所有地を保障され、また幕府に対する勲功の恩賞として新たな土地を与えられた。前者は安堵と呼ばれ、その土地は本領と称された。後者を新恩と呼ばれ、その土地は恩領・恩地と称された。この場合の恩給は両者を指す場合と、後者のみを指す場合があった。また、恩給を与えられた者を給人と呼ぶようになったのもこの時期以後のことである。また、荘園や公領に属する所職に補任してそこに付随する土地用益権などの経済的な収益(得分)を保障することによって実質上の土地支配権を与える場合もあり、こうした補任も恩給の授与と同一視され、恩補(おんぽ)と称せられた。御恩を与えられた御家人は軍役など様々な義務(御家人役)を果たす必要があり、これを果たさない場合には、幕府から恩給として与えられた土地は初期の頃は給人一代限りのものとされ、その土地を没収することもできた(幕府に対して改めて安堵の手続を取ることを条件として給人の相続が認められるようになったのは13世紀に入ってからである)。
⇒簡単に言えば、武家社会の草創期においては、本領は私領、恩領は公領、だったわけだ。
恩領の公領性は、その相続が認められるようになってからも基本的に変わらなかったはずだ。(太田)
ただし、本領と恩領・恩地の間では恩給としての内容に違いがあった。従者である御家人が元々所有していた土地である本領を主君である鎌倉殿が安堵する形式とそれが新恩の給付以上に重要視されたという点は、日本の封建制度の独自の特徴であった。本領における御家人の権利は強力で、幕府といえども謀反や大逆などの重罪を犯さない限りは没収することは出来ず、御家人による売買や譲渡も自由であった。
⇒他方、本領に関しては、私領なのだから、本来は、当然、売買や譲渡だってできたわけだ。(太田)
一方、恩領・恩地は幕府が自由に没収することが出来、御家人による売買や譲渡にも制約を加えることが出来た。
鎌倉幕府は御家人への統制を強化と安定した御家人役を確保するために、本領においても恩領・恩地並の制約を課そうとした。仁治元年(1240年)、鎌倉幕府は御家人に対して恩領・恩地の売買・質入を禁止し、本領も御家人以外の者に売買することを禁じたのもその一環である。一方、御家人側も代々継承してきた恩領・恩地に対して勲功の恩賞として本領並の安堵を求めるケースもあり、幕府もそれを認めることもあったために時代が下るにつれて本領と恩領・恩地との権利内容の差異が小さくなっていった。
⇒ところが、本領と恩領の差異は次第になくなっていった、というわけだ。(太田)
なお、恩給には米や銭、官位の授与によって行われる場合もあったが、土地のように永続するものではなかったために、土地の安堵・新恩よりも一段低く扱われるか、副次的な恩賞とみなされていた。恩領・恩地の売買制限は室町幕府以後にも継承され、年季売は認めても質入は禁じるなどの制約が課されていた。
恩給に対する軍役などの奉公の義務は、与えられた土地の面積に応じて町別・反別単位で課されていたが、室町時代以後には土地が持つ生産力に応じて貫高・石高単位で課されるようになった。
⇒室町時代には、事実上の、貫高・石高制になっていた、というわけだ。(太田)
また、荘園公領制の解体によって職が形骸したことにより、代わって土地の所有そのものが恩給の対象になった。また、主従関係の弱体化によって御恩と奉公の関係も事実上は年貢の請負関係に近いものになっていった。戦国時代に入ると、戦国大名は家臣統制の手段として、給地の変更(給地替)を命じるようになって給人(家臣)と土地との関係を弱めようとしていった。江戸時代になると、米などの俸禄で恩給が与えられることが一般的となり、江戸幕府と大名(藩主)、あるいは大名(藩主)と一部の上級家臣を除いて土地が恩給として給付されることはなくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E7%B5%A6_(%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E7%A4%BE%E4%BC%9A)
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「・・・戦国大名は、自らの力量で領国を拡大していた。
当然のこと、城館も私有の対象であり、領民も使役することが少なくなかった。
要するに、自らの私財として領地・領民・城郭を認識していたのである。
これに対して、地域社会においては土豪・地侍層が商業などで得た利益をもとに高利貸しをおこなって加地子(かじし)(本年貢以外の中間地代)を集積して地主になっており、事実上の領主権を買得する者さえ現れるようになった。
大名家臣団たちは、戦争に備えて常に軍備増強する必要があり、日常的に高利貸しに借金・借米をせざるをえなかった。
身の丈に合った規模の軍備では、戦争に勝利できないからである。敗戦を重ねると借金・借米の返済が不可能になって、抵当としての田畑・屋敷地が流れることになる。
家臣団のなかに多額の債務の返済のために領地を売り払う者が現れることは、大名にとって領主制を足下から突き崩す全般的な危機ということができる。・・・
信長や秀吉にとって、領主権の売買を防ぐことを目的に導入したのが、全国規模の検地による石高制の導入だった。
⇒上の囲み記事から分かるように、鎌倉幕府が、既に領主権の売買の原則禁止に踏み切っており、特段、信長や秀吉が目新しいことを始めたわけではありませんし、検地を契機に、貫高・石高制を石高制に一本化したというだけのことです。
検地は、むしろ、(以下から分かるような)軍役負担の公正さを確保するためのものだった、と、私は見ています。(太田)
軍役=奉公と、知行安堵・宛行=御恩を介する封建制原理が、はじめて石高による相関関係で結ばれたのである。
<1584>年の小牧・長久手の戦いにおいて、秀吉のもとで陣立書(配陣図)が成立した背景も、ここにある。
石高表示された領地は、検地によって収公され公領と位置づけられたから、それは売買の対象とならなくなったことを意味する。
また、検地帳に登録された農民は、移動の自由が認められないかわりに、本百姓として個別領主による私的な使役を受けなくなったことも重要である。
天下統一戦とは、城割や検地を中核とする仕置を通じて、天下人が国土を収公するための戦いであった。
⇒全国規模での、広義の農地のモノ・ヒト管理形態について、鎌倉時代中期までの国衙領
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E8%A1%99%E9%A0%98-63740
的なものへの回帰を念頭に置きながら、実態としては鎌倉時代中期以降の関東御領
https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%BE%A1%E9%A0%98-49346
的なものへの回帰を果たした、のが、織豊政権であった、というのが、取敢えずの私の仮説です。(太田)
統一戦を通じて国土領有権を掌握した秀吉は、諸大名に対して領知権を、具体的には領地・領民・城郭を預けていった。
石高と所付(ところづけ)(領地の所在地)を付して領地を預けられた大名は、領地を私有しているのではないから、それを抵当に借金することはできなくなったのだ。
以後において、天下人や将軍と大名以下の領主集団が領知権を共有することによってのみ、国家支配が可能になったのである。
在地領主制にもとづく中世領主制の自己否定を通じて、近世領主制が誕生した意義は大きい。
これは、世界史的にみてもきわめて特異な領主制だったのだ。」(24~26)
⇒具体的な比較が、例えば、神聖ローマ帝国の封建制との間でなされていないので、コメントのしようがありません。(太田)
(続く)