太田述正コラム#12361(2021.11.1)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その10)>(2022.1.24公開)
「・・・江戸時代には、国替に関する作法が整備され、城郭そのものと城内の城米(じょうまい)や城付武具をはじめ城下町の武家屋敷までが天下の共有財産と認識され、幕府から派遣される旗本などの上使によってチェックされるようになった。
・・・江戸時代を通じて10回以上も国替を経験した大名家がある・・・。
それが可能だったのも、城郭や武家屋敷が公儀からの預かり物として位置づけられていたことによっている。
藩主や家臣団は、居住環境について心配することなく転封先に移っていけたのであり、この基本原則は幕末まで変化しなかった。
なお、これは拝領屋敷である江戸の藩邸(上屋敷)も同じである。
城郭と同様に武家屋敷も、私有の対象ではなかった。・・・
藩財政の悪化によって、外様藩では藩士が自前で屋敷を修理することも少なくなかったようだが、国替の多かった譜代藩の場合は「官舎」としての原則が守られた・・・。
藩領についても、江戸時代前期には重臣層のなかに地方知行がゆるされている外様大藩もあったが、中・後期においては知行制が否定されて蔵米を与える俸禄制へと移行し、藩による地域支配の質が平準化する傾向にある・・・。・・・
また、・・・1643<年>に発令された田畑永代売買禁止令<(注14)>によって百姓の田畑売買は原則的に禁止されており、その私有が許されたのは明治5年(1872)のことだった。・・・
(注14)「江戸時代,幕府が農民の担税能力維持を目的として,農民が田畑を売買することを禁止した法令。ただし,この名称による法令があるわけではなく,1643年(寛永20)3月に代官あてに出された全7条の〈書付〉中の第3条と,同年同月に農民あてに出された全17条の〈書付〉中の第13条とを合わせていう。これに同年同月に出された罰則〈田畑永代売御仕置〉(全4条)を含めることも多い。代官あてでは〈豊かな百姓は田畑を買い集めてますます豊かになり,貧乏な百姓は田畑を売却してますます貧乏になるので,今後田畑の売買を禁止する〉といい,農民あてでは理由を述べずに〈田畑の永代売買を禁止する〉といっている。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E7%95%91%E6%B0%B8%E4%BB%A3%E5%A3%B2%E8%B2%B7%E7%A6%81%E6%AD%A2%E4%BB%A4-94045
「前年に最大規模化した寛永の大飢饉を契機に幕府は本格的な農政へ乗り出し、飢饉による百姓の没落を防ぐ目的で発布されたとされている。・・・
主に天領に向けて発布されたと考えられているが、質流れなどで実際上は江戸時代を通じて土地の売買が行われており、幕府においても江戸時代中期以後に入ると、法令違反の訴えがない限りは同法違反の取締りを行うことはなかったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E7%95%91%E6%B0%B8%E4%BB%A3%E5%A3%B2%E8%B2%B7%E7%A6%81%E6%AD%A2%E4%BB%A4
そもそも豊臣政権による天下統一以来、原則的に田畑の売買は許されなかったし、新田については耕作者が交代する割地制度<(注15)>が続いた地域も広範にあった。
(注15)「大河川下流の低湿地の新田地帯や地すべり地帯などのような収穫の不安定地に多くみられる。一般的な田地の所持では、個々の百姓所持地が一定して不動なのに対して、この制度では、個人の耕作地が田地の割替ごとに移動する点を特徴とする。この制度が東北地方北部を除き全国的にみられるようになったのは、一つには、戦国期末以来の用水土木技術の発達によって、それまで手のつけることのできなかった大河川下流の沖積平野への耕地の進出が可能となり、大規模な新田開発が推進されたこと、そして二つには、太閤検地以後の幕藩領主の統一検地によって石高に基準を置き、村連帯の年貢賦課の方法(村請(むらうけ)制という)が採用されたことによって生じた。つまり、河川沿いの開発耕地が収穫不安定のままで、流作場(ながれさくば)、反高場(たんだかば)、通常の高請地として年貢賦課を受けるようになったことと、幕藩領主が本百姓体制を維持する目的で定めた年貢未納分の村連帯の責任制度(村請制)と、石高所持という耕地所持の特殊性とが相まって割地の慣行が生じた。・・・
割替は5年、10年、20年と年期を定めて行うのが原則であるが、実際は崩れがちで、災害の起こったときに部分的な割替を行ったり、逆に、村として経費や手間がかかる大事業なので長年にわたって行われないこともあった。後者の場合には、土地条件の変化した部分に対して、余荷(よない)(相互扶助)の方法で手当てした。」
https://kotobank.jp/word/%E5%89%B2%E5%9C%B0%E5%88%B6%E5%BA%A6-880122
割地制度とは、一村内の田地の地味に良・不良の差が生じて、百姓の持高と収穫高の割合が大きくかけ離れた場合、百姓の貢租負担と地味の良否を均等化するために田地を割り替える江戸時代の農村慣行のこと。
そもそも年貢村請(村役人を通じて村の連帯責任で年貢・諸役などを上納させたこと)だったため、個人が特定の田畑を所有し続けるという認識は低かったのだ。・・・
このように領知権を構成する領地・領民・城郭は、江戸時代を通じて藩主個人の私有の対象ではなかったのであり、正確には藩主の名義で藩として預かったものであった。
幕府は、国絵図・城絵図や郷帳などの地図・帳簿類によってこれらを正確に掌握していたのである。・・・」(26~28)
⇒要するに、江戸時代の日本は、律令時代の日本同様、基本、共産主義社会だったということです。
但し、律令時代の日本の(官僚制によって指揮された)公地公民制はタテマエ(絵に描いた餅)だったのに対し、江戸時代の日本では、(官僚制によって指揮された)公地公民制が、概ね全国で実態として採られていたところの、基本、共産主義社会、だったというわけです。
但し、共産主義社会だとは言っても、「官僚制によ」る「指揮」は、あくまでも「指揮(command)」に留まり、トップダウンではなく、ボトムアップで運営されたところの、無政府主義社会に近い共産主義社会だった、というのが、私の見方です。
ああ、そう言えば、マルクスの唱えた共産主義社会って、まさにそういうものだったですよね。(太田)
(続く)