太田述正コラム#12371(2021.11.6)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その15)>(2022.1.29公開)
「・・・天下統一とは、天下人が城割・検地などの仕置きを通じて「日本六十余州」の収公を完了し、国土領有権を掌握することである。
決して、戦争を通じて反抗する戦国大名がいなくなることを意味するものではない。
したがって、従来のように天下統一の完成を小田原北条氏が敗退した<1590>年とすることは誤りで、秀吉が奥羽再仕置を終え御前帳と国絵図の調達を命じた<1591>年に求めるべきである
⇒「<1590>年、秀吉は・・・小田原征伐を行い、・・・7月11日、小田原城は開城し、北条氏政・北条氏照兄弟が切腹、北条氏直ら北条一門の多くが高野山に配流となった。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡した。・・・それより先の6月14日に蒲生氏郷が既に陸奥国二本松へ到着し、豊臣軍の奥州入りの先駆けとなっている。<そして、>奥州仕置(おうしゅうしおき)<が>、・・・1590年・・・7月から8月にかけて行なわれ<、>・・こ<れ>により、秀吉の天下統一事業は遂に完成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E4%BB%95%E7%BD%AE
というのが、通説であると思われ、藤田が、通説は小田原征伐の完了をもって天下統一の完成としているとするのは、微妙とな違いとはいえ、間違った認識ではないでしょうか。(注23)・・・
(注23)「小田原に遅参した政宗は、秀吉から会津黒川城を没収された。当城は、かつて葦名氏が居城としたが、秀吉の発令した停戦令を無視した政宗が、<1589>年に摺上原(すりあげはら)の戦いに勝利し奪取して本城としていたからである。あわせて小田原に参陣しなかった葛西晴信をはじめ石川昭光・大崎義隆・白河義親などの諸大名の所領を没収し、奥羽の押えとして伊勢松坂城主だった蒲生氏郷に、陸奥国内の12郡と越後小川荘を与えた。
どうしても腑に落ちないのは、木村吉清の大抜擢である。かつて明智光秀の家臣だった吉清は、山崎の戦いの後に秀吉に仕えて取り立てられ5,000石を領有した。しかしこれといった戦功もなく、いきなり30万石もの大封を得て、葛西氏の本拠寺池城(宮城県登米市)に入城したのである。
結果的に、秀吉の人事は失敗だった。しかし彼にとっては想定内のことで、政宗を頂点に緩やかに進みつつあった奥羽の統一を、外圧によって短期間に実現するための捨て駒が必要だったのだ。名将氏郷を会津に置いただけでは、秀吉を中心とする統一など実現しないとみたからである。
<1590>年8月から翌<91>年にかけて、奥羽では太閤検地と刀狩が強行される。検地については、既に秀吉が<1590>年8月10日に片桐且元らに基本原則を指令し、浅野長吉に厳格な執行を命じていた。
「仕置に反対する者がいたなら、一郷も二郷もことごとくなで切りせよ。六十余州にかたく命じる。山の奥、海は櫓櫂(ろかい)の続く限り、念を入れて執行するように。いささかなりとも手を抜くことがあれば、私が直に出向いて厳命を申し付ける」との有名なくだりは、この時期に発せられた秀吉朱印状中の文言である。
しかし、仕置の執行によって旧葛西・大崎領の一揆から和賀・稗貫(ひえぬき)一揆を経て・・・南部信直の有力一族<である>・・・九戸政実の決起に至る大規模な抵抗運動が勃発する。」(藤田達生「無慈悲な執行に一揆勃発!豊臣秀吉「奥州仕置」衝撃の真相」より)
https://serai.jp/tour/1019742
秀吉は、<1591>年正月に<京における>大規模な町屋の移転を命令し、長者町・聚楽町・禁裏六丁町などが存在した聚楽第から禁裏にかけての土地を諸大名に下賜し、豪華な大名屋敷を建設させた。
それまでに分散的に存在していた大名屋敷を、秀吉の首都構想に沿って、一定地域に集中させようとしたものであった。
これは、寺町の形成とも並行して進められ、同時に洛中を囲む御土居<(コラム#12026)>の普請も開始された。
天下統一の進捗に伴って、聚楽第周辺には豊臣直臣ばかりか服属大名の屋敷が軒を連ねた。
大名の参勤に従って、諸国からは大量の武士が京都に集まってきた。
また聚楽第の建設や<1588>年から再開された方広寺大仏殿造営などのために、商工業者をはじめ日用(ひよう)層(雑役労働者)などの労働人口の爆発的な増加がみられた。・・・
そして朝鮮出兵の始まった<1592>年5月18日付豊臣秀次宛秀吉朱印状・・・によると、聚楽第を中心に御土居の内部に営まれた条坊都市を「平安城」と呼んでいる。
まさしく、東アジア国家における一首都として位置づけようとしたのである。・・・
⇒意味不明に近い一文です。(太田)
<この>平安城においては、大名の集住が復活した。
世界的にみた場合、当時このような軍事集権国家は類例のないものだった。
⇒ここは間違いでしょう。
例えば、イギリスは、地理的意味での西・中欧の中では、私見では例外的に封建制社会/国家であったことがなく、アルフレッド大王当時から一貫して軍事集権国家でした(コラム#省略)し、そのイギリスで、大名ならぬ大貴族の首都ロンドン集住も、「宗教改革」期の16世紀前半までには実現しているところです(注24)からね。
(注24)’Before the Reformation, more than half of the area of London was the property of monasteries, nunneries and other religious houses.
Henry VIII’s “Dissolution of the Monasteries” had a profound effect on the city as nearly all of this property changed hands. The process started in the mid 1530s, and by 1538 most of the larger monastic houses had been abolished. Holy Trinity Aldgate went to Lord Audley, and the Marquess of Winchester built himself a house in part of its precincts. The Charterhouse went to Lord North, Blackfriars to Lord Cobham, the leper hospital of St Giles to Lord Dudley, while the king took for himself the leper hospital of St James, which was rebuilt as St James’s Palace.’
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_London
これが独裁者秀吉を対外戦争へと駆り立てたのであり、ポルトガルやスペインが日本を植民地化できなかった理由も、まさしくここにあった。」(70、74~75)
⇒話は逆であり、信長/秀吉は、対外戦争を行うという目的のための手段として日本における天下統一を図ったのです。(太田)
(続く)