太田述正コラム#12373(2021.11.7)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その16)>(2022.1.30公開)

 「・・・信長・秀吉・家康という天下人も、京都に居館的な単廓の城郭–二条御所・聚楽第・二条城–と、その周辺に複廓式の大規模城郭–安土城・大坂城・伏見城–を構えた。
 二段構えの城郭配置である。
 京に城をもつことの意味は、天下の支配者すなわち天下人であることを誇示することにあった。
 つまり、私的な本城に対して公的な城郭として位置づけることができるのである。
 将軍が江戸に城郭を構えるようになった江戸時代を通じて、京都に二条城が存在する理由とはなんだったのだろうか。
 対朝廷工作の窓口だったという意見もあるが、やはり室町将軍以来の京都すなわち「天下」を治める公儀の城郭だったからとみるべきだ。

⇒鎌倉将軍(承久の乱以後)の時も、京に六波羅探題(注25)があったところ、その北に(六波羅探題設置以前から?)将軍の本邸たる六波羅御所(注26)があったのですから、鎌倉将軍と室町将軍の時代以降とを分かつものは、将軍が京等の狭義の「天下」と(少なくとも日本全体という意味での)天下を治める公儀の「本宅」が両時代を通じて京にあった以上、この「本宅」が城郭作りであったか否かという点だけでしょう。
 なお、鎌倉将軍時代を含め、鎌倉には城郭が存在したことが一切ない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%9F%8E
ところ、鎌倉将軍時代の京にも将軍の城郭がなかったのは当然です。(太田)

 (注25)「承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれることになった。また、幕府側は、朝廷方の動きを常に監視し、これを制御する必要が出てきた。
 そこで、朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧平清盛邸の跡地を拠点にし、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留して、西国の御家人の監視と再編成および承久の乱の戦後処理を含めた朝廷の監視を行った。これが六波羅探題の始まりである。
 <後に、六波羅探題は、京の治安維持も担当することになる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E6%8E%A2%E9%A1%8C
 (注26)「六波羅御所<は、>・・・六波羅探題の北に存在した檜皮葺<(ひわだぶき)>の邸宅<であって、>板屋葺の探題よりも一段格上の建物で鎌倉殿(征夷大将軍)の本邸<であり、>征夷大将軍に補任されたものは、一度この本邸に入った後関東に下向するのが慣例で<、>「武家」の語源。
 朝廷にとって征夷大将軍とは、<あくまでも、>京都に住む摂関家や王家出身のものが一時的に征夷大将軍に補任され、京都から東夷(東国)征伐のために関東に下向する存在であった。」(上掲)

 たとえば、家康も秀忠も将軍宣下を受けた後に御所に向かうが、二条城から牛車に乗っており、・・・1620<年>の徳川和子(まさこ)の入内も二条城からおこなわれた。・・・
 長らく、関ヶ原の戦いの結果、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉三ヵ国65万石の一大名に転落したといわれてきた。
 しかし秀頼の支配権が三ヵ国にとどまるものではなかったことは、・・・これまで多々指摘されている。
 朝廷とは、関ヶ原の戦い以降も親密で、年頭には大坂城に勅使が派遣され、親王・公家・門跡衆らも参向していた。
 当時このような高位高官にあって朝廷と独自のパイプをもった大名は、秀頼のほかは皆無であった。
 秀頼の官位昇進については、関ヶ原の戦い当時は従二位中納言の地位にあり、その後も順調に官位を進めていたし、左大臣に任官する動きがあったことも指摘されている。<(注27)>

 (注27)「1601年・・・権大納言・・・1602年・・・正二位・・・1603年・・・内大臣・・・(徳川家康の右大臣昇進による欠員の補充)。・・・1605年・・・右大臣・・・(徳川家康の辞任による欠員の補充。ちなみに後任の内大臣は徳川秀忠)。・・・1607年・・・1月11日、右大臣を辞す。なお、・・・<1608年の>左大臣の辞令(宣旨)が現存する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC

 また将軍徳川秀忠の内意を必要としながらも、家臣団に対する官位執奏権を保持していた。
 これに対して、家康は関ケ原の戦いの後も秀頼との主従関係を清算できず、京都より西に一門・譜代を配置することもできなかった。
 そのため、・・・1603<年>2月に将軍に任官するまで、形式的にせよ秀頼を主君としており、自身を豊臣家大老と位置づけざるをえず、その後、駿府を隠居所と定めるまで伏見城で過ごした。
 したがって、<駿府に向けて>京都を去る<1606>年9月になって、<ようやく、>事実上、家康は大老を辞任したことになる。・・・
 <1603年の二条城>築城から・・・1615<年>の豊臣家滅亡まで、二条城は軍事的拠点とした伏見城に対して、京都所司代による幕府の朝廷および諸大名に対する儀礼・儀式の場として位置づけられ、伏見城と役割・機能を分担していたとする指摘がある。」(78~80)

(続く)