太田述正コラム#12375(2021.11.8)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その17)>(2022.1.31公開)

⇒豊臣家の厚遇、とりわけ、秀頼の昇進は、後陽成天皇/上皇(1571~1617年。天皇:1586~1611年、上皇:1611~1617年)の天皇時代に行われたものであるところ、(豊臣家の有力男系血筋の断絶をもたらした)秀次事件や(豊臣家の力の大幅な減退に繋がった)関ヶ原の戦いの原因をもっぱら天皇家/近衛家が作ったことの罪滅ぼしを秀吉死後の豊臣家に対して行ったものだった、というのが私見である(コラム#省略)わけです。(太田)

 「この段階において、秀頼やその母、淀殿は家康を必ずしも敵視していたのではない。

⇒それはそうでしょうね。(太田)

 たとえば、秀頼が盛んに進めた寺社再興については淀殿と家康との連携があったこと、それを実質的に支えたのは淀殿と江(秀忠の妻、江与、崇源院)の姉妹だったとする見解がある。
 このような流れのなかに、<1603>年における徳川秀忠息女千姫の秀頼への輿入れが一づけられる。
 この婚礼については、徳川・豊臣両家の関係を円満につなげようとする二人の母の努力により実現したとする指摘も重要である。

⇒まさか。(太田)

 ところが、・・・1608・09<年>を画期として、家康は女婿の姫路城主池田輝政と側近の伊予今治城主藤堂高虎を使って、大坂に対する巨大な包囲網を構築し、新たな大名配置を実現したことが明らかになっている。・・・
 それでは、なぜ<この>両年に大坂包囲網が構築されたのだろうか。
 これは前年における相次ぐ家康の子息の死去が、直接的なきっかけとなったと考える。
 すなわち、<1607>年3月には松平忠吉<(注28)>(ただよし)(四男・28歳、尾張清須52万石)が死去し、同年閏4月には松平(結城)秀康<(注29)>(次男・34歳、越前福井67万石)も急死した。」(81~82)

 (注28)1580~1607年。「第2代将軍徳川秀忠の同母弟。徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたる。・・・器量を備えた美男子で人望も厚<かった。>・・・嗣子がなく、清洲藩は弟の五郎太(徳川義直)が継いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%90%89
 (注29)「秀吉の養子時代に無礼な家来を一刀両断にした、相撲見物に騒ぐ民衆をひと睨(にら)みで静まらせたなどというエピソードは、史実ではないにしても秀康の器量の大きさをうかがわせる。家康自身がその資質を認めていたからこそ、関ケ原合戦の際は上杉景勝対策に秀康を宇都宮に残したようだ。・・・
 関ケ原の合戦(1600年)の後、家康(当時57)がひそかに重臣たちに後継者問題を諮ったという逸話が伝えられている。候補者は次男の結城秀康(26)、三男の徳川秀忠(21)、四男の松平忠吉(20)と3人もそろっていた。側近の本多正信は豊臣秀吉の養子だった秀康を、井伊直政は関ケ原合戦で奮闘した女婿の忠吉を推した。大本命の秀忠は関ケ原遅参の大ミスが響いていたが譜代の大久保忠隣らが強く推した結果、後継者に決まったという。
 「徳川家康」(ミネルヴァ書房)の笠谷和比古・・・は「“後継者重臣会議”は史実ではないだろう。徳川姓を名乗ることのできた家康の息子は秀忠だけだったから」と指摘する。官位も中納言と家康の内大臣に次いで飛び抜けていた。しかしこうした逸話が残っていること自体、秀忠への継承が必ずしも全員賛成で進められたわけではないことを示唆している。」
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO2841594022032018000000

⇒藤田は、歴史学者なのですから、一般向けの新書とはいえ、歴史書を書く時に、歴史小説家のような突飛な想像をしてもらっては困ります。
 例えば、秀康に関しては、「幼名を於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった<のだが、>その対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったと<いい、>冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされる<けれど、>・・・小楠和正<(注30)>は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7
ところ、私は、概ね小楠説乗りであり、家康は、自らの権力追求、獲得した権力の徳川家による継承の実現、を、自分の特定の子や孫らへの情よりも遥かに優先する冷徹な偉大なる凡人である、と見ており、晩年の家康にとっての最大の障害は、豊臣家及びその後ろ盾となっている天皇家であった以上、彼は、全身全霊を傾けて、天皇家の権威の大幅減殺、と、豊臣家の弱体化・滅亡、とを追求せざるをえなかったのであり、秀吉と千姫との婚儀なんぞは豊臣家を油断させるための小細工に過ぎず、その後、豊臣家包囲網を構築したのは豊臣家を滅亡させるための最終的布石だった、と、考えています。(太田)

 (注30)おぐすかずまさ(1936年~)。「静岡大学教育学部卒、公立中学校教諭を経て、浜松市中央図書館非常勤職員。・・・浜松市周辺の郷土史を専門として<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A5%A0%E5%92%8C%E6%AD%A3

(続く)