太田述正コラム#12377(2021.11.9)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その18)>(2022.2.1公開)

 「西国諸大名に対する押さえとして期待していた彼らの死が、家康の対大坂策硬化の直接的な原因となった可能性が高い。
 したがって<1611>年3月における家康の上洛は、秀頼と西国諸大名に対する包囲網を完成させたうえで実現したものであり、秀頼の二条城訪問は明らかに家康の術中に入るものであった。
 家康は、万全の体制を整えたうえで6万とも7万ともいわれる大軍団を率いて上洛し、豊臣家に対して臣従するように強烈に圧力をかけたのである。<(注31)>

 (注32)「1611年・・・、それまで延期されてきた後陽成天皇の譲位が3月27日に、それに伴う後水尾天皇の即位が4月12日に執り行われる事となった。それらの儀式に立ち会うため、徳川家康(69歳)は駿府城より4年ぶりの上洛を行った。この際に織田長益や高台院などを通じて、孫娘の千姫の婿でもある豊臣秀頼(17歳)に、二条城における会見を要請し、3月28日に執行される事となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E%E4%BC%9A%E8%A6%8B

⇒藤田の記述に嘘はないけれど、「注32」にも言及すべきでした。(太田)

 これについては、跡部信<(注32)(コラム#12328)>(あとべまこと)氏の指摘が参考となる。

 (注32)1967年~。京大文(史学)卒、同大院修士、大阪城天守閣学芸員、同主任学芸員、京大博士(文学)、大阪城天守閣研究副主幹。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a80955.html
https://interpreterguide.net/info/12-17%EF%BC%88%E6%9C%A8%EF%BC%89%E8%B7%A1%E9%83%A8%E4%BF%A1%E6%B0%8F%EF%BC%88%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E5%AE%88%E9%96%A3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%89%AF%E4%B8%BB%E5%B9%B9%EF%BC%89%E8%AC%9B/

 跡部氏は、上洛か戦争かを迫った家康に秀頼が応じて二条城の会見が実現した<(注33)>こと、これによって家康は豊臣家大老としての立場を自ら辞したこと、加えて諸大名からの三ヵ条の条書の提出・・・によって、豊臣恩顧大名衆に主家との関係を清算するように迫ったとみた。

 (注33)「1605・・・年4月。・・・秀忠は将軍宣下(せんげ)を受けるために上洛<したところ、>この将軍就任の祝賀という名目で、家康は秀頼に上洛を要望した<が、>・・・上洛するのであれば「秀頼を自害させて自分も自害する」と拒絶。」(Dyson尚子「徳川家康が豊臣秀頼と会った「二条城会見」の全貌!190㎝のガタイが命運を分けた?」より)
https://intojapanwaraku.com/culture/104008/

 筆者は、大筋でこの説に賛同するが、家康はすでに秀頼後見人の立場を駿府へ引退することで辞し、あわせて豊臣家大老としての地位も捨てていたと理解している。
 石田三成の失脚がそうだったように、伏見城から居城への引退は公務辞任を意味する。
 家康が豊臣家との関係を清算したのであるから、<1606>年9月の家康の駿府行きこそ豊臣公儀解体の決定的な画期とみるべきである。」(82~83)

⇒三成は、伏見(城)からではなく、大坂(城)から(伏見経由で)居城へ、だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
ことはともかくとして、「秀吉の死後は遺命により、家康が伏見城下にて政務をとり、利家は大坂城において秀頼の傅役とされた<けれど>、<1599年の>利家死後に家康は自分以外の大老を帰国させ、兵を率いて大坂城西の丸に入っ<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E8%80%81
ところ、この1599年の時点で、家康以外の諸大老・・利家を継いだ利長(注34)を含む・・が辞任した(辞任させられた)と主張している人などいなさそうなのですから、藤田の主張はナンセンスであり、ここは、私は跡部説乗りです。

 (注34)「死去あるいは高齢・病気等によって家康が欠けた場合は嫡男(三男)・徳川秀忠が、利家が欠けた場合は嫡男・利長が跡を襲うことが秀吉遺命に定められていたが、他の三人が欠けた際の欠員補充については定めはなかった。」(上掲)

 但し、「成長した秀頼を目の当たりにし、その才を感じ取った家康。二条城会見は、まさに豊臣一族の運命を決めるものとなったのである。」
https://intojapanwaraku.com/culture/104008/ 前掲
という俗説がいまだ幅をきかせているところ、それに比べれば藤田説だって遥かにまともですが・・。
 なお、上掲は、「徳川家康が豊臣一族を滅ぼす覚悟を決めた理由。それは、二条城会見で成長した秀頼を見たからだけではない。それ以上に2つ。家康には気になることがあったのではないかと思う。それは、「秀頼」に対する周囲の期待である。その頃、京の町にはある落書きがなされて、有名になっていた。「御所柿は ひとり熟して 落ちにけり 木の下にゐて 拾ふ秀頼」 二条城会見の時点で徳川家康は70歳を超えていた。もう、既に次の世が見える頃合い。一方の秀頼は19歳。その若さは眩しすきるほど。家康もバカではない。そんなことくらい薄々分かっていたが。まさか、周囲がそこまで熱狂しているとは思いもせず。未だ、豊臣一族の人気は衰えていない、そんな痛い事実を突きつけられたのである。そして、その期待は、戦国大名の中にも見て取れた。これが2つ目の理由である。『名将言行録』には、二条城会見の後日談が記録されている。じつは、二条城会見の日、家康は付き従っていた加藤清正に刀を与える。このとき、清正は虚空に目を向けて頂戴したというのだ。これに気付いた家康は、その方向に「愛宕山(あたごやま)」があることに思い至り、板倉勝重にその理由を調べさせる。すると、清正は密かに、「二条城で秀頼に災害がないように」と、17日間護摩を焚いて祈願していたというのだ。その忠儀に家康は感心した。」(上掲)と続けているのでご紹介しておきます。(太田)

(続く)