太田述正コラム#12383(2021.11.12)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その21)>(2022.2.4公開)

 「・・・1608<年>を画期として、家康は女婿の姫路城主池田輝政と側近の伊予今治城主藤堂高虎を使って、西国大名に対する巨大な包囲網を構築し、新たな大名配置を実現した。
 この段階では、豊臣恩顧大名すなわち外様大名を使って進めるほかなかったのである。
 そのスタートが、<1608>年の高虎の伊予から伊勢・伊賀への転封である。
 この国替に伴って、伊勢津の富田信高<(注37)>が高虎旧領の伊予板島(後の宇和島)へ、淡路洲本の脇坂安治<(コラム#10238、12328)>が同じく高虎旧領の伊予大津(後の大洲)へと国替し、伊賀国主筒井定次<(注38)(コラム#11988、12124、12328)>は改易された。
 
 (注37)?~1633年。「近江国で生まれ・・・<秀吉仕官当時に>伊勢安濃津城主。津藩2代藩主。関ヶ原の戦いの功績によって伊予宇和島藩初代藩主に転じたが、改易された。・・・大久保長安事件に連座したという説が有力である。・・・長男の知幸は徳川頼房の家臣となり、子孫は水戸藩士として存続した。次男の知儀(とものり)は、館林藩主時代の徳川綱吉の家臣となり、その後500俵を給され旗本となる。知儀の子息の知郷の代に7000石に加増され、上級旗本として存続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%AB%98
 (注38)1562~1615年。「一族で本家筋の筒井順慶(従兄、母方の叔父でもある)に子が無かったため、順慶の養嗣子となった。最初、順慶の養子候補としては番条五郎が検討されており、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の承諾も得ていたが、五郎が謝絶したため定次が養子となった。
 ・・・1578年・・・3月、織田信長の14番目の息女を娶る。名は秀子、または藤、伊賀上野に移って後に、上野御方と称されたという・・・。定次没後は日栄と号した。・・・
 1608年・・・、定次の重臣の中坊秀祐が定次の悪政や鹿狩での倦怠などの不行状を訴え、定次は幕命により改易となり、ここに大名としての筒井氏は滅亡した(筒井騒動)。改易の理由については、大坂城の豊臣秀頼に武家にとり重要とされる年賀の挨拶に赴き幕府の忠誠の態度を明確に示さずに日和見であり、もともと豊臣恩顧の大名であり伊賀国という大坂の近郊で軍事的な要衝の地を領していたことを幕府から危険視されたとされている。・・・<また、>1592年・・・に長崎で受洗しており、キリシタンであった事が改易原因の一つでもあると言われている。・・・領国における悪政、酒色に耽溺したからとの、風評はあるが証拠はない。定次改易後の伊賀には外様ながら家康の信任が厚かった藤堂高虎が入った。
 定次は改易された後、鳥居忠政のもとに預けられることとなった。
 ・・・1615年・・・、大坂冬の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、嫡男・筒井順定と共に自害を命じられた。・・・
 家康により筒井氏の家督は定次の従弟に当たる筒井定慶が大和郡山城1万石を与えられて継いだが、大坂夏の陣で豊臣方に大和郡山城を攻め落とされ(郡山城の戦い)、戦後もそのまま領地を失った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%AE%9A%E6%AC%A1

⇒「注38」から、定次がキリシタンであったにもかかわらず、織田信長の女たる正室の上野御方が日栄と号したことから日蓮宗信徒であったと思われ、かつ、キリシタンにはならなかったように思われること、が興味深いですね。(太田)

 また、同年には山陰道の要衝丹波八上の前田茂勝<(注39)>の改易と家康の信頼の厚い松平康重<(注40)>の丹波篠山入封があった。

 (注39)1582~1621年。「前田玄以の3男(次男とも)<。>・・・1595年・・・にキリシタンとなる。・・・1600年・・・の関ヶ原の戦いでは西軍に与して、東軍方の細川幽斎が守る丹後国田辺城を攻め、開城の使者も務めた。その後、関ヶ原の戦いは西軍の敗北で終わるが、父・玄以が持つ朝廷とのパイプなどを考慮されて、戦後、父の所領・丹波亀山藩は安堵された。
 ・・・1602年・・・、父・玄以が死去したために家督を継ぎ、丹波八上に移封され八上藩主となった。しかし、熱心なキリシタンであったために幕府に危険視され、また藩政を省みずに放蕩に耽り、終には発狂したという。諫言する家臣・尾池清左衛門父子を始めとする多くの家臣を切腹させたため、・・・1608年・・・、幕府から改易を申し渡され、出雲国松江藩主で甥の堀尾忠晴に身柄を預けられた。改易後はキリシタンとして真面目な生活を送ったといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E8%8C%82%E5%8B%9D
 (注40)1568~1640年。「康重は松平康親の子とされているが、実は徳川家康の落胤とする説がある。生母は家康の侍女であり、家康の子を身籠ったまま康親に嫁いだとされる。後に子孫も家康の「康」を通字として用いている。
 また、これとは別に父の松井忠次が松平康親と改名したという話は、息子の康重が改名した話が誤って伝えられたという説もあり、これが事実とすると、「松井」から「松平」と改姓したのは康重の時代という事になる。・・・
 1619年・・・、大坂平野南方の要衝、和泉岸和田に移封となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%B7%E9%87%8D

⇒「注40」からも、改めて、豊臣恩顧大名家へのキリシタンの浸透ぶりに呆れます。
 家康や秀忠にしてみれば、そのことを、豊臣恩顧大名家と取り潰す材料の一つに使えて助かったことでしょうが・・。(太田)

 慶長年間における一門・譜代大名の最西端は、ここにとどまった。
 伊予今治に残った藤堂高吉<(注41)>(たかよし)(高虎の養子)は重臣須知出羽(すちでわ)とともに、安芸広島の福島正則を監視した。

 (注41)たかよし(1579~1670年)。「丹羽長秀の三男で、羽柴秀長、次いで藤堂高虎の養子となった。・・・
 1606年・・・に・・・伊予今治城城代(高虎が留守の際)に任じられ、・・・名張川の治水や城下町の発展に努めた。地元では現在でも名君と慕われているという。
 ・・・1608年・・・、藤堂家はそれまでの今治城20万石から伊賀一国および伊勢2郡の津城20万石に移封されることとなった。しかし、今治城周辺の越智郡2万石は飛び地として残ることとなったので、計22万石の加増移封となった。これにより、高吉は改めて今治城の城代とされ、周辺の所領の開発に勤しんだ。・・・
 ・・・1630年・・・、養父の高虎の死後はその子・高次の家臣として仕えるようにな<り、>・・・伊賀・・・名張藤堂家の祖となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E5%90%89

 さらに、<1613>年の富田氏改易の後は、ふたたび高虎が板島城を預かっている。・・・」(104~105)

(続く)