太田述正コラム#12389(2021.11.15)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その24)>(2022.2.7公開)
「日光東照宮の建設を主導したのは、藤堂高虎であった。・・・
<また、>死の床にあった家康から、高虎は幕府に万一のことがあれば先鋒となることを命じられたという。
また来世でも奉公することを求められて、ただちに日蓮宗から天台宗へと改宗した。・・・
⇒これは、日蓮宗から他の宗派や宗教への改宗の中では(系譜から、また、どちらも法華経を根本経典とすることから、)最も「自然」なものではあるけれど、やはり、日蓮宗信徒としてはとんでもないことです。
高虎の父の虎高の肖像画が、伊賀の上行寺にありますが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E8%99%8E%E9%AB%98
この寺は、「藤堂高虎公を開祖とする藤堂家歴代の・・・日蓮宗の・・・菩提寺。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E8%A1%8C%E5%AF%BA
であり、高虎の日蓮宗が、少なくとも父の代から引き継いだものであることを示唆しているところ、菩提寺が高虎開祖にかかり、しかも藤堂家歴代の菩提寺になったというのですから、件の高虎と家康の挿話、フィクションの可能性が・・。(太田)
寛永時代の宮廷サロンの中心にいたのは後水尾天皇であるが、その実弟で近衛信伊の養子となり、政治的にも文化的にも公家社会の頂点にいたのが近衛信尋である。・・・
高虎<は、>1587<年>に秀吉の九州出兵に従軍した後に従五位下佐渡守に叙任された<が、>その折に、・・・藤原氏支流の家系を自らの判断で選び、近衛家を宗家と仰いだ。
それ以来、高虎は信尋との昵懇な関係を築いた。
たとえば、・・・1618<年>11月には上洛した高虎が信尋を訪問している。
逆に信尋が京都の藤堂藩邸を訪問することもあり、宴会や船遊びも催されている。
・・・1624<年>には伊勢参宮の途次、信尋が居城の伊勢津を訪れ、高虎はこれを大いに歓待している。
<1629>年12月には、高虎が信尋を介して朝廷に贈物を献上しており、藤堂家はこの後も毎年12月に朝廷・近衛家・京都所司代に歳暮を贈るようになったという。
また信尋が江戸に下向した際には、藤堂藩邸を訪れることもしばしばだった。
信尋と高虎がともに、遠州の茶会に招かれることもあった。・・・
近衛信尋と松花堂昭乗<(コラム#12176、12385)>そして高虎と昵懇な儒者三宅亡羊<(注46)>(ぼうよう)は、・・・「遠州茶湯検討グループ」ともいえる人脈だった・・・。・・・
(注46)三宅寄斎(きさい。1580~1649年)。「和泉岸和田(大阪府岸和田市)の人,父は豊臣秀吉の臣。・・・11歳で父を失い仕官を断念,伏見,京都に遊学。京都大徳寺で読書力行を重ね,藤原惺窩などの師友を得た。生計のため,医業に従事。その学問は漢唐注疏から朱子学に至り,京洛の殿上人や武将に広く信奉され,後陽成,後水尾両天皇にも進講した。石田三成からも招聘されたが,関ケ原の「未然を先識して」避けたという。香,茶,挿花にも秀でた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%AF%84%E6%96%8E-1113543#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus
寛永文化の中心メンバーが高虎の奔走で入内した徳川和子や、藤原氏支流を称した高虎が本宗家当主と仰いだ近衛信尋であり、小堀遠州もそれに連なった。
安定した公武関係の基礎づくりに貢献した人脈が、同時に華やかな宮廷文化を創造したことは、まことに興味深い。
公武融和こそ、天下の安定に直結したのであり、それが実現した京都という地に、高虎も遠州も貴重な足跡を残したのである。」(170~173)
⇒徳川将軍家は、豊臣家を滅亡を図るとともに、豊臣家に好意を寄せている天皇家を貶めつつ監視を続けたところ、この監視の中心的役割を担わせたのが高虎であり、高虎は、藤原氏であると標榜して近衛信尋に接近していたところ、近衛家や天皇家を監視させる一方で、徳川将軍家は、高虎に、近衛家や天皇家を文化的活動へと誘導させることで倦ませないようにさせることによって、近衛家や天皇家の徳川幕府に対する怒りを緩和させ、鎮めさせ、彼らによる反抗・反撃の芽を摘んだ、というのが私の見方です。
「高虎は<、>・・・1614年・・・、伊賀郷士10名を「忍び衆」として登用し、上野城下に屋敷を与え・・・(忍町)<、>また「下人」を間諜活動に使っていたとされる<・・、>高虎の死後、・・・1645年・・・に「忍び衆」は聞こえが悪いため「伊賀者」に改称され<る。・・が、>実際に高虎が命じた役目は参勤交代の警固・御殿や城内の監視・武士や町人、百姓の観察であったとされ<・・>幕末には異国船探索も命じられていた<。・・、>伊賀では670ヶ所に屋敷跡が確認されており、藩内では「無足人(足すことの無い士)」として扱われた<ところ、>これは苗字帯刀が許されるが俸禄のない郷士制度であり普段は半農半士として農業に従事して<おり、>・・・1741年・・・の記録では1900名余り、・・・1783年・・・には1200名余り確認されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E
といった具合に、スパイ使いの達人であったことに注意を喚起しておきたいと思います。
私見では、高虎自身が、朝廷に対する高級スパイだったのであり、もう一人の高級スパイであった東福門院(徳川和子)と手を携えつつ、高虎は、ものの見事に、家康らが与えたミッションを成功裏に果たしたのです。(太田)
(続く)