太田述正コラム#12409(2021.11.25)
<三島由紀夫『文化防衛論』を読む(その10)>(2022.2.17公開)
最後に、「国民の皇室尊崇に・・・大きなはたらきをしている」ものの中に、津田が『神皇正統記』と『大日本史』という、歴代天皇の事績の記述を中心に作成された二大日本史書を挙げていないことも残念に思います。
「神皇正統記<は、>・・・『大日本史』を編纂した徳川光圀を筆頭に、山鹿素行・新井白石・頼山陽ら後世の代表的な歴史家・思想家に、きわめて大きな影響を与え<まし>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98
https://www.kokugakuin.ac.jp/assets/uploads/2017/02/000074490.pdf
し、「大日本史<は、>・・・水戸学の淵源と<なり、>・・・幕末の尊王攘夷運動<、ひいては、>・・・王政復古に大きな影響を与えた」
https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6-139008
のですからね。(太田)
「・・・言論の自由の見地からも、天皇統治の「無私」の本来的性格からも、もっとも怖るべき理論的変質がはじまったのは、大正14<1925>年の「治安維持法」以来だと考える・・・。
すなわち、その第1条の、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ…」という並列的な規定は、正にこの瞬間、天皇の国家の国体を、私有財産制度ならびに資本主義そのものと同義語にしてしまったからである。
この条文に不審を抱かない人間は、経済外要因としての天皇制機能をみとめないところの、唯物論者だけであった筈であるが、その実、多くの敵対的な政治理念が敵の理念にしらずしらず犯されるように、この条文の「不敬」に気づいた者はなかった。
正に、それに気づいた者がなかった、というところに、「君臣水魚の交わり」と決定的に絶縁された天皇制支配機構が呱々の声をあげるのである。・・・
⇒「私有財産制度」については、「私的所有権は経済的な自由主義である資本主義の基本概念となっている<の>に対して各種の社会主義やファシズムや開発独裁などは私的所有権の制限を主張し、更に共産主義は私的所有制の廃止と財産の社会的共有を主張<してい>る」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E7%9A%84%E6%89%80%E6%9C%89%E6%A8%A9
ことを踏まえて、これを守ろうとしたわけですが、治安維持法と「似たような法律は当時のドイツ、フランス、アメリカ合衆国、イギリスなどに公然と存在していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%AE%89%E7%B6%AD%E6%8C%81%E6%B3%95
とはいえ、調べる労を惜しみましたが、恐らく、治安維持法の「守備範囲」は、欧米諸国の類似法よりも、共産主義以外も対象としている点で広かった可能性が高いけれど、「治安維持法<が、>・・・1917年(大正6年)の十月革命(ロシア革命)による共産主義思想の拡大を脅威とみて企図されたといわれ<てい>る」(上掲)以上、そんな違いがあったとしても、大差ないでしょう。
また、「国体」の方は、「治安維持法公布後に内務省警保局が官報に載せた各条義解によると、・・・国体とは誰が主権者であるかの問題である。」とされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93
ので、立法者意思は、「国体」=「天皇主権」、を守ろうとするところにあったわけです。
このように、治安維持法が守ろうとするものが一見2つになっているのは、1922年に設立された日本共産党が、「「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求した」ことに対応して、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的ト<スル>」ことしただけの話であって、要は、この2つは、当時においては共産主義なるコインの両面に他ならないところ、三島の治安維持法批判は、深読みし過ぎと言うより、言葉遊びのレベルです。(太田)
かつて建武中興が後醍醐天皇によって実現したとき、それは政権の移動のみならず、王朝文化の復活を意味していた。・・・
このような・・・文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、無秩序の側へも手をさしのべていたのである。
もし国家権力や秩序が、国と民族を分離の状態に置いているときは、「国と民族との非分離」を回復せしめようとする変革の原理として、文化概念たる天皇が作用した。
孝明天皇の大御心に応えて起った桜田門の変の義士たちは、「一筋のみやび」を実行したのであって、天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきであったが、西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪っていた。」(54~56)
⇒かろうじて三島が言わんとすることが理解可能な叙述ですが、桜田門外の変は、孝明天皇の意思に反する徳川幕府に対する蹶起であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
のに対し、二・二六事件は、昭和天皇の意思を勝手に忖度した上で、その忖度された意思に反するように見えた帝国政府に対する蹶起であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ところ、それは、三島の言う、「天皇のための蹶起」ではなかったのですから、そんな蹶起を嘉しなかった昭和天皇を三島が批判するのは筋違いも甚だしい、と、言うべきでしょう。(太田)
(続く)