太田述正コラム#12411(2021.11.26)
<三島由紀夫『文化防衛論』を読む(その11)>(2022.2.18公開)

 「・・・御歌所<(注7)>の伝承は、詩が帝王によって主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかわりなく、民衆史を「みやび」を以て統括するという、万葉集以来の文化共同体の存在証明であり、独創は周辺へ追いやられ、月並は核心に輝いている。

 (注7)「1888年設置、1946年廃止<された>・・・宮内省の部局<で、>・・・御製・御歌・歌御会に関する事務を所掌した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%AD%8C%E6%89%80
 「後円融天皇の永和年間の和歌御会始を模範として後柏原天皇が・・・1501年・・・正月の月次歌会を独立した儀式として執り行ったことが記されており、これが歌会始の直接的起源であると考えられている。江戸時代からはほぼ毎年開催され、少しずつ変化をしながら現在に至る。・・・
 近代においては、・・・1869年・・・に京都御所の小御所で行われたのが最初であった。・・・1874年・・・には一般国民からの詠進も広く認められるようになり、・・・1879年・・・からは詠進歌も詠みあげられるようになった。・・・詠進歌の選考は宮内省に置かれた御歌所が行なった。・・・
 1928年・・・には、歌会始の式次第が定められ、それまで「歌御会始」だったのが、「歌会始」に改称される。
 ・・・1947年・・・より、現在のように皇族のみならず国民からも和歌を募集し、在野の著名な歌人(選者)に委嘱して選歌の選考がなされるようになった。それにともない、勅題はお題(おだい)といわれるようになり、平易なものになった。これにより、上流社会の行事から一般の国民が参加できる文化行事へと変化を遂げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E4%BC%9A%E5%A7%8B

⇒「歌会始」ではなく「御歌所」という言葉を用いたことは、後者が明治以降にだけ存在し、しかも、三島がこの文章を書いていた時には既に存在していなかったことから完全に不適切ですし、「歌会始」に「民衆」が何らかの意味で参加できたのは、どんなに贔屓目に見ても明治時代からなのですから、仮に三島が「歌会始」という言葉を用いていたとしても、不適切だったでしょう。
 言葉を何よりも大切にすべき文学者として、ありえない、とさえ言いたくなります。
 もっとも、私は、三島が主張したいことには同感であるところ、さしずめ、私なら、『万葉集』や『梁塵秘抄』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%A1%B5%E7%A7%98%E6%8A%84
を引き合いに出すところです。(太田)

 民衆詩はみやびに参与することにより、帝王の御製の山頂から一トつづきの裾野につらなることにより、国の文化伝統をただ「見る」だけではなく、創ることによって参加し、且つその文化的連続性から「見返」されるという光栄を与えられる。
 その主宰者たる現天皇は、あたかも伊勢神宮の式年造営のように、今上であらせられると共に原初の天皇なのであった。
 大嘗会と新嘗祭の秘儀は、このことをよく伝えている。

⇒前述したように式年造営の由来が不明であるだけではなく、このような文脈の中で、三島から、彼(だけ?)の「今上天皇=原初の天皇」説を持ち出されても、というのが率直な感想です。
 また、大嘗会/新嘗祭(の秘儀)を「今上天皇=原初の天皇」説の根拠の一つとして挙げていますが、それが根拠の一つとなる理由を三島は記していないので、コメントのしようがありません。
 なお、三島の当時は、「折口信夫の唱えた「真床覆衾」論、つまり日本神話における天孫降臨の場面を再現することによって「天皇霊」を新帝が身につける神事であるとする仮説が支持され」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD
ており、恐らくは、三島はこの折口説を所与のものとしているのでしょうが、「1983年に岡田精司が聖婚儀礼説を唱えてこれを鋭く批判し、日本史学界で一定の支持を集め<たところ、>1989年から1990年にかけて、岡田荘司が「真床覆衾」論も聖婚儀礼説も否定する論考を発表し・・・、大嘗祭とは新帝が天照大神を初めて迎え、神膳供進と共食儀礼を中心とする素朴な祭祀であ<って>天照大神の神威を高めることにより天皇がその神威を享受すると<の説を唱えたが、この説は>、折口以前の通説、さらには一条兼良などの中世公卿の見解とも一致<してい>る。・・・岡田荘司は大嘗祭において稲だけでなく古代の庶民の非常食であった粟の饗膳も行われることに着目して、大嘗祭は民生の安定と農業を妨げる自然災害の予防を祈念するものであるとし、「大嘗祭の本義は、稲や粟など農耕の収穫を感謝し、国土に起こる災害現象に対する予防のため、山や川の自然が鎮まるように祈念するもの」「国家と国民の安寧を祈念する国家最高の祭祀」との見解を示した。
 のちに西本昌弘により『内裏式』新出逸文が紹介され、その検討が加えられた結果、もはや日本史学界では「真床覆衾」論も聖婚儀礼説もほぼ完全に否定されている。」(上掲)ところです。(太田)」(57)

(続く)