太田述正コラム#12415(2021.11.28)
<三島由紀夫『文化防衛論』を読む(その13)/藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その25)>(2022.2.20公開)
「・・・菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から与えられなければならない。
現行憲法下法理的に可能な方法だと思われるが、天の王に栄誉大権の実質を回復し、軍の儀仗を受けられることはもちろん、聯隊旗も直接下賜されなければならない。・・・」(59)
⇒ここは、私も三島と同意見ですが、問題は、当時そうであっただけでなく、信じ難いことながら、現在でもなお、いや、どうやら未来永劫、日本は「軍」を持とうとしないことです。
かろうじて意味が読み取れる箇所だけを追ってきたところの、本シリーズ、は、これくらいにしておきますが、『文化防衛論』を読んだ当時の未熟な私でさえ、この本の彼の肝心の「文化防衛論」の、とりわけ核心諸論考の、表現と論理の杜撰さに呆れ、それらの論考にはアンダーラインを引く気すら失せてしまったということだったのだろう、と、思った次第です。(太田)
(完)
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藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その25)
「・・・1620<年>に和子が後水尾天皇に入内して以来、朝廷と幕府の関係は徐々にではあるが、良好なものになっていった。
秀忠は、さらに融和を進めるために、将軍家の京都屋敷である二条城への行幸を画策する。
家康以来の念願であった、朝廷支配を確実なものにするための最終段階に入ったのである。
遠州は、<1622>年に近江の国奉行になり、あわせて翌年には伏見奉行を拝命した。
二条城行幸の実務は、遠州が務めることになったのである。
この一大イベントは、大軍を率いて将軍秀忠が上洛し、後水尾天皇を迎えるばかりではなく、全大名を上洛させて将軍家への服従を確実にする儀式でもあった。
すなわち、衆人環視の場で公武の融和、および将軍と諸大名の主従関係を確認することに目的が置かれていた。
⇒豊臣秀吉(と秀次)がやった、1588年(と1592年)の聚楽第行幸、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%9A%E6%A5%BD%E7%AC%AC%E8%A1%8C%E5%B9%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
の完全な二番煎じであることを、藤田には言及して欲しかったですね。(太田)
徳川体制の完成を飾るイベントの準備は、2年前の・・・1624<年>正月から秀忠によって着々と計画されていた。
遠州は、その中核的部分に幕僚として関与する。
その第一が、・・・1603<年>に竣工していた二条城の拡張だった。
<その>・・・すべてに・・・遠州は・・・主導的な役割を果たした。
さらには、天皇一行の使用する膳部の調進から上洛する武士たちの宿所の確保までに関与した。
公武融和と主従制強化すなわち幕府確立のために、遠州は文字通り奔走したが、彼の人脈がそれを可能にしたといってもよい。
行幸に関する幕府方の折衝役は尾張藩主徳川義直で、朝廷方のそれは近衛信尋だった。
ここで遠州の親友で近衛家に扶持を与えられていた松花堂昭乗<(コラム#12176、12385、12389)>が、石清水八幡宮ゆかりの義直生母(相応院)と近しかったことが注目される。
⇒「近衛家の恩顧を受けて広く公家に出入し<た>」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E8%8A%B1%E5%A0%82%E6%98%AD%E4%B9%97-18319
「1593年・・・の頃近衛信尹に仕える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%8A%B1%E5%A0%82%E6%98%AD%E4%B9%97
ということと、二条城行幸の頃もなお「近衛家に扶持を与えられていた」かどうかは別のことである以上、しかも、それが重要なことだけに、藤田にはその裏付けに触れて欲しかったところです。(太田)
また遠州は、竹腰(たけのこし)氏や成瀬氏という尾張徳川家の付家老たちとも茶道を介して親しい関係を築いていた。
遠州は、行幸前の時期に義直や信尋と茶会をもっている。
岳父高虎も、<1625>年正月の秀忠の尾張<江戸>藩邸への御成に同行している。
いずれも、行幸のための打ち合わせにほかならない。
行幸直後にあたる9月22日の遠州茶会には、信尋と高虎そして三宅亡羊<(注47)>が招かれている。
(注47)三宅寄斎(きさい。1580~1649年)。「儒者。・・・和泉岸和田(大阪府岸和田市)の人,父は豊臣秀吉の臣。寄斎は著書が伝わらず行状も不明。わずかに『先哲叢談』後編(1830),『間散続録』(写本,慶応義塾大学蔵)からその事績を知るのみ。11歳で父を失い仕官を断念,伏見,京都に遊学。京都大徳寺で読書力行を重ね,藤原惺窩などの師友を得た。生計のため,医業に従事。その学問は漢唐注疏から朱子学に至り,京洛の殿上人や武将に広く信奉され,後陽成,後水尾両天皇にも進講した。石田三成からも招聘されたが,関ケ原の「未然を先識して」避けたという。・・・茶は宗旦(そうたん)四天王のひとりにかぞえられ,・・・香,・・・挿花にも秀でた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%AF%84%E6%96%8E-1113543#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus
世話になった礼をを兼ねてのものとも思われる。」(173~175)
(続く)