太田述正コラム#12417(2021.11.29)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その26)>(2022.2.21公開)

 「・・・「大坂ハゆく〈ハ、御居城ニも成られるべき所ニ御座候」、すなわち「大坂城がゆくゆくは将軍の居城になるところだ」という意味である。
 これは・・・1626<年>12月17日付高虎宛小堀遠州書状・・・の一節である。・・・
 同年11月に誕生した自身の外孫にあたる皇子(高仁(すけひと)親王)を天皇にして公武合体政権を成立させることが、当時の秀忠の意向だった。
 それが実現すれば、秀忠が江戸城から大坂城へと「御居城」を移し、事実上の「大坂幕府」を発足させる構想があったことが、この表現からはうかがわれる。
 実は、これは家康以来の徳川将軍家悲願の政権構想でもあった。
 すなわち、大坂夏の陣が終わった直後の・・・1615<年>6月6日付島津家久宛島津義弘書状には、「公方様(徳川秀忠)大坂へ御座なさるべき様ニ、歴々御沙汰なされ候や、左候はば、当秋よりや来春や、御普請の企てこれあらば、書面の如く、いよいよ金銀の入るべき事、際限あるべからず候」・・・と記されているのである。
 家康と対面した島津家久(忠恒(ただつね)、義弘三男、後に鹿児島藩主となる)は、国許の父親義弘に、将軍秀忠が大坂を居城とするという幕府の要人からの情報を伝えた。
 これを受けて、義弘は大坂城再興のための普請役にかかる莫大な出費を予想し、嘆息したのである。
 この記述をもとに「大坂幕府」説を唱える跡部信<(前出)>氏は、「遠州書状」の意義を次のように考えているので紹介したい。
 大坂夏の陣直後、幕府の上層部のなかで将軍秀忠を大坂に置く「大坂幕府」構想が語られていた。
 この時の「大坂幕府」構想は、家康の死などの要因により立ち消えとなったが、今回の遠州の発言は無から生じたものというより、10年ほど前に実在した「大坂幕府」構想をふまえたものと考えたほうが理解しやすい。
 秀忠は家康と同様、代替わりの過渡期に大御所と将軍による二元的体制を採用したが、家康が江戸から離れて駿府に拠点を構えたのとは異なり、将軍と同じ江戸城を大御所の居城に選んだ。
 そして、大御所付の年寄と将軍付の年寄が合議で政務をおこない、合同で連署状を発給する体制を整えて、二元的体制の欠点を補おうとした。
 これは、家康大御所時代の体制の反省をふまえて、あえて秀忠なりの修正を加えた結果と考えられる。
 跡部氏は、このような方法を選んだ秀忠が、大御所と将軍が大坂と江戸に遠く離れて分住する体制を構想したとは考えにくい、と指摘する。
 「遠州書状」の<1626>年の時点での「御居城」といえば江戸城であり、そこには大御所秀忠(西の丸)と将軍家光(本丸)が住んでいた。
 この時点での所与の前提として、大御所と将軍が住む「御居城」があった<わけだ>。
 大坂城が将来的に「御居城」になると述べた遠州は、この前提をふまえて、同様に大御所と将軍が大坂城に住むかたちをイメージしていたと解釈するほうが素直である、と説く。
 跡部氏は、その著書でも天皇を身分序列上の頂点にいただく観念や、天皇の居住地を首都とみなす観念の強固さを指摘し、そうした観念は秀吉のみならず同時代人一般がとらわれていた秩序観であったと主張する。
 大坂夏の陣直後に幕府上層部の間で話題となっていた「大坂幕府」構想が、家康の死によって完全に廃棄されたのではなく、大坂城再築の時点でも選択肢のひとつとして幕閣のなかで命脈をたもっていた可能性がある。
 少なくとも、遠州は幕府が江戸を本拠とすることに違和感を抱いていたと理解する。・・・
 ところで、徳川大坂城は規模でこそ江戸城には及ばないものの、本丸には江戸城よりも多い11基の三重櫓が建ち並び(江戸城の本丸三重櫓はわずか4基)、有名な蛸石や肥後石をはじめとする巨大な鏡石が多用され、高石垣も日本一の32メートルもあった。
 城郭規制の厳しい当時、なぜかくも大坂城のほうが立派だったのか、これは城郭史上においても大きな謎だった。
 これが、「大坂幕府」構想によって解明されるのではなかろうか。・・・
 そうすると、大坂城再建にあわせて・・・1619<年>から設置された城代制についても、当初は「大坂幕府」までのつなぎ的な位置づけだったとみることも可能になる。
 江戸城と同様に、大坂城にも西の丸や山里丸が設けられたことも、本城としようとしたことの表れとみられる。」(177~181)
 
⇒水野大樹(注47)は、「しかし、<遠州>書状を見ると、幕府の機能を移転するという話は出てこない。書状が書かれた・・・1626<年>は、7月から9月にかけて大御所・秀忠と将軍・家光が入京して参内し、このとき後水尾天皇も秀忠が入った二条城(京都府)に行幸している。秀忠は大坂を巡覧もしており、もし大坂幕府構想が存在したのならば、なんらかの形で史料に残っていてもおかしくはないだろう。また、大坂城は・・・1620<年>から修築工事が始められているが、幕府を移転するにしてはのんびりしすぎている。結果的に大坂城は西国における将軍の居城として再建されており、書状の「大坂ハゆく/\ハ御居城にも可被成所ニ御座候間」という文言は、大坂に幕府を移転するという意味ではなく、大坂城を西の重要拠点とすると考えたほうがよいのかもしれない。」と主張しており、
https://shirobito.jp/article/788
私は、どちらかと言えば、この水野説乗りです。(太田)

 (注47)「1973年、静岡県生まれ。青山学院大学卒業後、出版社勤務を経て歴史ライターとして独立。著書に『城手帳』(東京書籍)、『戦国時代前夜 応仁の乱がすごくよくわかる本』(実業之日本社)、『もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱』(徳間書店)、『室町時代人物事典』(新紀元社)などがある。」(上掲)

(続く)