太田述正コラム#12419(2021.11.30)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その27)>(2022.2.22公開)

 「ここで疑問となるのは、なぜ「大坂幕府」構想が実現しなかったのかである。

⇒そんな構想などそもそも存在しなかったからだ、でオシマイなのですが、ま、お付き合いをしましょう。(太田)

 二条城行幸が成功して、これまでないぐらいに公武関係が安定したにもかかわらずである。
 筆者は、構想実現には重大な前提があったとみている。
 それは、家康以来の念願だった将軍が天皇の外祖父であろうとする外戚路線、つまり公武合体政権構想とセットだったからである。・・・
 <1619>年9月、後水尾天皇は実弟近衛信尋に書状を送り、高虎に入内を斡旋してほしいとの意志を伝える。
 この頃、秀忠は不行儀を理由として天皇側近の・・・6人を処罰して、朝廷へ圧力をかけていた。<(注48)>

 (注48)「1619年・・・9月15日に秀忠自身が上洛して、与津子の振る舞いを宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた武家伝奏・広橋兼勝と共にこれを追及した。そして万里小路充房を宮中の風紀の乱れの責任を問い丹波国篠山に配流、与津子の実兄である四辻季継・高倉嗣良を豊後国に配流、更に天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止にした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒上京した秀忠から、およつ御寮人問題を提起された後水尾天皇が、その9月の段階で入内を受諾していながら、どうして11月になって拒否に転じたのか、藤田の説明を聞きたかったところです。(太田)

 同年11月になると、天皇は信尋への書状を通じて、高虎に譲位の旨を伝える。

⇒1619年時点では、信尋は右大臣・・翌1620年に左大臣・・であり、かつ実弟でもあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B
というのに、宮中で話せば足りることをどうしていちいち書状にしたのか、藤田は不思議に思わなかったのでしょうか。
 私は、近衛家が家康のために姓の件で2度も便宜を図っていて(コラム#省略)家康/秀忠もそれを多としていたと思われることから、後水尾天皇としても、徳川家とのやりとりは近衛家・・この場合は信尋・・・を通じて行うことが望ましいと考えていたのでしょうが、同天皇と信尋は、かなり以前から(次のオフ会「講演」原稿で明らかにする理由により)対立関係にあったため、同天皇は、信尋との対面を避けていたのだ、と、私は想像しています。(太田)
 
 秀忠の強圧的な措置への反発だった。・・・
 <1620>年2月、上洛した高虎は朝廷に赴き強談判したのである。
 五摂家以下の公家衆を集めて「自分が将軍の命を受けて上洛したのに、(中略)、入内に同心なしと決まれば、恐れながら天皇は左遷とし、自分は不調法の責任を取って切腹するまでである」・・・と恫喝した。
 結局、これに折れた朝廷は同年6月の和子入内を決定したのであった。

⇒後水尾天皇が、後鳥羽上皇や後醍醐天皇のように、幕府に叛旗を翻したのならともかく、入内を拒否した程度で天皇を配流になどできるわけがないのに、そんな高虎のブラフに屈して・・屈したふりをして?・・入内を受諾した後水尾天皇が、私には理解できません。(太田)

 大坂城の普請は、高虎を普請総指図役として・・・1620<年>3月から開始された。
 これは入内の決定と密接に対応している。
 前年に、大坂城主だった松平忠明<(注49)>(ただあき)は大和郡山へ国替となり、大坂城には城代が置かれ、大坂城下町は幕府直轄地となっていた。

 (注49)1583~1644年。「徳川家の重臣・奥平信昌の四男として誕生。母は徳川家康の長女・亀姫(盛徳院)であり、家康の外孫にあたる。
 ・・・1588年・・・、家康の養子となり、松平姓を許された。初名は清匡(きよただ)。・・・1592年・・・に兄・家治が死去したため、その家督を継いで上野国長根に7000石を与えられた。・・・1599年・・・3月11日、叔父・徳川秀忠から「忠」の偏諱を受け忠明と名乗る。・・・1600年・・・の関ヶ原の戦いでは父と共に徳川方として参加した。・・・1602年・・・9月、三河作手藩主となる。
 ・・・1610年・・・7月27日、伊勢亀山藩5万石に加増移封された。・・・1614年・・・からの大坂冬の陣では美濃国の諸大名を率いて河内口方面の大将となる。元々、美濃の諸将を率いるのは加納藩主の兄・忠政の役割であったが、出陣前に病没し、加納からは父による代参陣もなく、兵だけが忠明の指揮下に遣わされた。そこで忠明が代わって、加納の兵力を含む美濃諸将を束ねることになった。・・・
 後に休戦協定が豊臣家との間で結ばれると、家康の命令で大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当した。・・・1615年・・・からの大坂夏の陣では、道明寺の戦い、誉田の戦いに加わる。戦後、大坂の陣での戦功が考慮され、家康の特命により摂津大坂藩10万石の藩主となり、戦災復興にあたった。
 戦時の間に中断されていた運河開削が有志によって再開され、完成に至るとこれを賞した。この運河を道頓堀と名付けたのが忠明だと言われている。復興の手腕を高く評価する幕府によって、・・・1619年・・・に郡山藩12万石へ加増移封された。・・・
 ・・・1632年・・・1月30日、大御所秀忠の遺言で近江国彦根藩主・井伊直孝と共に家光の後見人(大政参与)に任じられ、・・・1639年・・・3月3日には播磨姫路藩18万石に加増移封され西国探題と位置づけられ、江戸幕府の宿老として幕政に重きを成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8E

 城郭の改修工事は、三期10年にわたって続けられ、高仁親王の即位が予定された・・・1629<年>の前年、<1628>年に完成した。」(181~182)

(続く)