太田述正コラム#12423(2021.12.2)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その29)>(2022.2.24公開)
「加藤嘉明の会津転封と蒲生忠知の松山入封は、瀬戸内筋の要地に位置する広島・松山・今治の三藩が親戚大名で構成されることを意味した。
特に浅野氏と蒲生氏はともに家康の外孫であることから、松平姓を称する大大名が当該地域に配置されたことは看過できない。
それを献策したのが、藤堂高虎だった。
⇒家康を含め、誰でも思いつきそうな策ですが、その言い出しっぺが高虎だった根拠を藤田は教えてくれていません。(太田)
なお、讃岐には高虎の養女を正室とする生駒正俊<(注52)>がいたことも重要である。
(注52)1586~1621年。「<父親の>生駒 一正<(1555~1610年)は、>・・・織田家の家臣・生駒親正の長男として誕生した。
初め織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどで活躍した。信長死後は羽柴秀吉に仕えて数々の合戦に参加する。・・・1591年・・・、従五位下・讃岐守に叙任される。朝鮮出兵にも参加し、蔚山城の戦いなどで活躍した。
・・・1600年・・・の関ヶ原の戦いでは、父・親正の代わりに会津出兵に参加し、そのまま東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げた。父の親正は西軍に加わっていたが一正の功により罪を問われず、1万5千石の加増となった。・・・1601年・・・、家督を継ぐ。・・・1603年・・・、豊臣姓を下賜されている。・・・1608年・・・、妻子を江戸屋敷に居住させたため、その忠義を徳川秀忠より賞された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E4%B8%80%E6%AD%A3
「<本人は、>一正の死により家督を相続する。・・・1614年・・・からの大坂の陣では遊軍として活躍した。・・・死去<後、>家督は長男の高俊が襲封したが、幼少のため外祖父の藤堂高虎の後見を受けることになった。・・・子<が、>藤堂長正<の正室になっている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E6%AD%A3%E4%BF%8A
「藤堂長正(・・・1614年<~>1682年・・・)は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第2代。伊賀国名張1万5000石の領主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%95%B7%E6%AD%A3
したがって、正確には広島・松山・今治・高松の四藩が親戚大名として配置されていたのであり、これらは西国地域に対する幕府の監視役としての役割も果たしていた。
あわせて、次の事実も重要である。
鳥取藩主池田光政<(コラム#9663、9669、9692、9902、11105、12082、12285、12299、12301、12303、12312、12363)>は、・・・1628<年>1月に大御所徳川秀忠の養女を正室として迎え、・・・<1632>年6月には岡山藩主となっている。
また、家康と従兄弟関係にある水野勝成<(注53)>(かつなり)は・・・1619<年>に備後福山に入封するが、新たに五層天守を擁する大城郭<(注54)>を普請している。・・・
(注53)1564~1651年。「「倫魁不羈(りんかいふき)」(余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない)と称された。・・・主君 水野忠重(徳川家康→織田信長→信雄)→仙石秀久→豊臣秀吉→佐々成政→黒田孝高→小西行長→加藤清正→立花宗茂→三村親成→徳川家康→秀忠→家光・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8B%9D%E6%88%90
「<勝成の父の>水野忠重<(1541~1600年)の>・・・実姉・於大の方は徳川家康の生母<なの>で、<忠重は>家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人にも数えられている。・・・主君 水野信元(織田信長)→ 徳川家康→ 織田信長 → 信忠 → 信雄 → 豊臣秀吉 → 徳川家康」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D
(注54)「福山城は江戸時代初期、元和偃武の後に建造された近世城郭で最も新しい城である(厳密には赤穂城や松前城など福山城より後に築かれたものもあるが、慶長期から続く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後としてよいだろう)。・・・1619年・・・、関ヶ原の戦い以降備後国・安芸国の2国を治めていた福島正則が武家諸法度違反により改易されたことから、 徳川家康の従兄弟である水野勝成 が毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封する。入封時の領地目録上は備後神辺城主であったが、勝成の進言により神辺城はやや内陸にあり過去に何度も落城した歴史があったことなどから、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。・・・
、昭和20年(1945年)の福山大空襲によって、伏見櫓、筋鉄御門(ともに、国の重要文化財)を残して焼失している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%82%99%E5%BE%8C%E5%9B%BD)
このようにして、備前・備後・安芸と讃岐・伊予という瀬戸内筋がすべて徳川家に近い大名で占められるようになり、一国一城令が発布されているにもかかわらず、備後福山城のような大規模城郭の新規築城さえ許された。・・・」(188~189)
⇒私の命名によるところの、身内事大主義者、であったからこそ、(高虎ファクターはさておき、)家康は、このような大名配置を行ったわけですが、本件に限らず、御三家についても、家康は思想的なものの重要性が分からず、従ってまた、思想的なものが家伝的に継承されていくということなど顧慮することがなかったところ、それが、徳川幕府が打倒される原因になった、と、私は考えるに至っています。
むしろ、そんな家康が開いた徳川幕府が2世紀半ももったことの方が不思議である、とさえ。(太田)
(続く)