太田述正コラム#12425(2021.12.3)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その30)>(2022.2.25公開)
「国替が繰り返されると、藩主の家臣団に対する統制力が強化された。
サラリーマン化が促進したからだ。
番方<(注55)>(ばんかた)といわれる戦士が重んじられた戦乱から、役方<(注55)>(やくかた)といわれた官僚が力をもつ泰平の世へと時代は移行してゆく<(注56)>が、そこには藩内部の質的転換があったのである。
(注55)「江戸時代の幕府・諸藩の職制上の区分。武官の系統を番方,文官の系統を役方という。番方は常備軍として殿中・城門の守衛,城番,主君出行時の供奉などを職務とした。幕府には大番組,書院番組,小性組番,新番組,小十人組,徒士(かち)組,百人組,先手(さきて)組などがあった。その組織は番頭(ばんがしら)―組頭―番士,あるいは頭―与力・同心というもので,それぞれ数組ずつあった。これに対し,役方は吏僚として政務,事務あるいは典礼の遂行などを職務とした。」
https://kotobank.jp/word/%E7%95%AA%E6%96%B9%EF%BD%A5%E5%BD%B9%E6%96%B9-1197425
(注56)「一般に,平時には番方の重要度は低下し,役方に有能な人材が配されたといわれるが,人事上で両者に明確な区分があったわけではない。書院番・小姓組の両番から出発し,番方・役方種々の役職を歴任して勘定奉行・町奉行・大目付に至る道筋は,旗本にとってのエリートコースであった。両者の関係は,幕府官僚機構全体のなかで有機的にとらえる必要があろう。」 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
http://www.historist.jp/word_j_ha/entry/036504/
⇒武家、武士の何たるかを想起すれば、ここの藤田説より、「注56」の「山川」説の方が私の腑に落ちますね。
我々が追究すべきは、藤田の指摘するような時代環境の変化だけではなく、江戸時代の武士達、とりわけ幕府の旗本・御家人の意識における武士度の実際の変化の有無、程度でしょう。(太田)
支城制が廃止され、支城主クラスの重臣も本城城下町に居住するようになると、城郭の役所としての質的転換がより一層進む。
武家屋敷も、転封を繰り返す譜代大名の場合は、藩の「官舎」という意識が強かった。・・・
加藤忠広<(注57)>・・・が襲封したのは、<その>父清正が急死した<1611>年のことで、わずか11歳であった。
(注57)1601~1653年。「墓所<は、>山形県鶴岡市の[日蓮宗の]本住寺<。>
嫡男の光広は飛騨高山藩主・金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され、天性寺に蟄居したが、配所にて過ごすこと1年後の・・・1633年)に病死した。これには自刃説、毒殺説もある。次男の正良は藤枝姓を名乗り、母である忠広の側室・法乗院と真田氏へ預けられていたが、父の後を追って自刃した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83
https://www.dewatabi.com/syounai/turuoka/motosumi.html ([]内)
忠広の正室の「崇法院<(すうほういん。1602年~1656年)>・・・は、・・・会津藩主蒲生秀行の娘。母は徳川家康の三女・振姫<で、>・・・1613年・・・に伯父である徳川秀忠の養女となり、翌・・・1614年・・・に加藤忠広に嫁いだ。・・・1632年・・・に夫が改易された際には、出羽国への配流には同行せず、以後は京都にて暮らした。2年後の・・・1634年・・・には弟の蒲生忠知の死により、実家の伊予松山藩蒲生家までも改易となっている。・・・京都の<日蓮宗>本圀寺に葬られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E6%B3%95%E9%99%A2
崇法院の父の「蒲生秀行<(1583~1612年)は、>・・・蒲生・・・氏郷・・・の嫡男。・・・母<は、>・・・織田信長の次女」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E7%A7%80%E8%A1%8C_(%E4%BE%8D%E5%BE%93)
肥後の曹洞宗の安国寺に秀行の供養塔があるが、この安国寺は、「加藤清正の時に建立された<日蓮宗(?)の>弘真寺が忠<広>時代に退転荒廃<していたところ、>細川氏の小倉時代に建立された安国寺の住僧梵徹が、細川氏とともに肥後に入国し、弘真寺に住居し祈祷所とし、安国寺と改称した<ものであり、>・・この供養塔は崇法院が父の供養のために建てたと思われる。」
http://orange.zero.jp/kkubota.bird/antaiheizan.htm
忠広の娘の瑤林院・・母は於大の方の弟の水野忠重・・は、紀州藩祖徳川頼宣の御簾中であり、その墓は、池上本門寺の紀州徳川家墓所と和歌山の日蓮宗報恩寺にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%A4%E6%9E%97%E9%99%A2
家康の判断で、高虎を後見人とし、家老加藤正方に実権を預けた。
高虎も肥後まで下向し、九州全体の監察もおこなっている。
それでも<1632年に>改易となったのである。
御家騒動の発生や藩主の資質不適格を、その原因とみるべきであろう。」(190~192)
⇒藤田は徳川本家性善説に立っていますが、忠広の改易は、大御所秀忠が亡くなった1632年1月24日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0
の直後の同年5月22日に、将軍家光によって断行されており、秀忠の遺志も受けてのものだったのではないでしょうか。
その理由ですが、私の見るところ、加藤家の紀州徳川家との日蓮宗(日蓮主義)を共有する姻戚関係を秀忠・家光親子が脅威と感じたのではないか、と。
さもなければ、忠広の男子2人の事実上の殺害まで行うようなことはなかったでしょう。(太田)
(続く)