太田述正コラム#12429(2021.12.5)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その32)>(2022.2.27公開)
「高松藩に加えて、高虎は・・・1619<年>に息女が会津若松60万石の蒲生忠郷<(注61)>に嫁いだことから、御家騒動の絶えない会津藩の内政にも心を砕かねばならなくなった。
(注61)1602~1627年。「会津藩主 蒲生秀行 の嫡子として生まれた。・・・1612年・・・5月、父の秀行が死去したために10歳で会津60万石を継ぐ。・・・しかし、未だ若年であったため母振姫の後見を受けた。
母振姫の勘気による仕置、家老・岡重政の死罪、祖父・氏郷の時代から弟・忠知の時代まで続いた重臣間の抗争など家中は安定しなかった。そのためか・・・1615年・・・の大坂の陣においては江戸留守居を命じられる。・・・
・・・1619年・・・、正室に藤堂高虎の娘を迎える。・・・1624年・・・には江戸藩邸に大御所秀忠と将軍家光の御成を迎えた。この間も重臣層の抗争、訴訟は続いていたが閨閥のゆえにか大事に至らず、・・・1626年・・・、後水尾天皇の二条城行幸に際し上洛、・・・このとき疱瘡に罹患し、翌・・・1627年・・・没した。・・・
正室藤堂氏との間には嫡子が無かったため、本来なら蒲生氏は断絶するところであったが、<同じく>母<振姫>が家康の娘であるということで、出羽上山藩4万石を領していた弟の忠知を後嗣として伊予松山24万石が与えられ、36万石の減封となったものの存続を許された。会津には蒲生氏に代わって加藤嘉明が40万石で入った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%BF%A0%E9%83%B7
蒲生忠知(ただとも。1604~1634年)は、「1628年・・・、磐城平藩主・内藤政長の娘(正寿院)と結婚をする。内藤氏は忠知より11歳も年下であったが、祝宴は3日間にわたって行われ、最終日の7日には大御所徳川秀忠・将軍徳川家光が揃って親族として参加した<。>・・・
1630年・・・、再び勃発した重臣の抗争を裁いた。この裁判沙汰はなかなか決着がつかず3年にも及び、忠知は幕府の裁定を仰いで決着を図り、ようやくにして事態の解決を見た。結果として、福西・関・岡・志賀らの老臣が流罪・追放されるだけでなく、家老の蒲生郷喜の弟である蒲生郷舎も暇を出され、召し放つ事態に陥った。・・・
姉<は>加藤忠広の正室<(前出)。>・・・<母の再婚により>浅野長晟が・・・継父に<なっている。>・・・
死因は不明だが、兄・忠郷と同じく疱瘡が原因ともいわれる。
忠知が死去した当時、正室の内藤氏(正寿院)が懐妊していたため、江戸幕府は正寿院の出産を待ってから松山藩の取り扱いを決めることにしたが、生まれたのは娘であったたため、嗣子がいないことを理由に松山藩は改易された。ただし、幕府では蒲生氏郷の名声や忠知が家康の外孫であることを考慮して、将来的には婿を迎えて蒲生氏の再興を認めることも検討されていた・・・が、その娘も・・・3歳で急死したため蒲生氏は断絶した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%BF%A0%E7%9F%A5
そのために、高虎は5人もの家臣を派遣した。
会津藩は、幕府にとって奥羽支配の要に位置づけられていたから、ここでも老獪な高虎に頼ったのである。
江戸初期の幕府は、藩体制を安定化させるために、各大名を指導し、国目付を派遣するなどしてその内政を監視したが、会津藩・金沢藩・高松藩・熊本藩など国持外様大名の場合は高虎のような・・・経験豊かな外様大名<の>・・・実力者に依頼して監督することもあった。」(196~197)
⇒高虎が幕府の依頼だけに基づいて他藩に関与したのは加藤家の場合だけで、生駒家と蒲生家の場合は、それぞれ、高虎の養女、女子の嫁入り先で姻族だったわけですから、幕府からの依頼があろうとなかろうと、後見したり気に掛けたりするのは当然でしょうから、藤田の主張にはにわかに首肯はできません。
(なお、本多政重が「上杉家の下から離れ武蔵国岩槻に帰った。・・・1612年・・・に藤堂高虎の取りなしで前田家に帰参して3万石を拝領し、家老としてまだ年若い前田利常(利長の弟)の補佐にあたった。」(前出)についても、既に上杉家から離れていた政重を、かつて、1615年の大坂夏の陣の時に、同じ岡山口にあって轡を並べて共に戦ったところの、高虎同様豊臣恩顧の大名である、という間柄の前田利常(注62)
https://tikugo.com/osaka/kassen/tennoji-k.html
・・政重はもともと前田家に仕えていたことを想起せよ・・、に斡旋した、というだけのことであり、特段、幕府の依頼があったとも思えません。)(太田)
(注62)1594~1658年。「加賀藩祖・前田利家の庶子(四男)として誕生した。母は側室の千代保(寿福院)。利家56歳の時の子である。利家が豊臣秀吉の文禄の役で肥前名護屋城に在陣していた時、下級武士の娘であった千代保は侍女として特派されたが、その際に利家の手がついて生まれたのが利常である。幼少の頃は越中守山城代の前田長種のもとで育てられる(長種の妻は長姉の幸姫)。父・利家に初めて会ったのは、父の死の前年の・・・1598年・・・に守山城を訪ねた折りのこと<だっ>・・・た。
・・・1600年・・・、関ヶ原の戦い直前の浅井畷の戦いののち、西軍敗北のため東軍に講和を望んだ小松城の丹羽長重の人質となった。この人質として小松城内に抑留されていた際、長重が利常に自ら梨を剥き与えた・・・という逸話が残っている。同年、跡継ぎのいなかった長兄・利長の養子となり、・・・徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎えた(この時珠姫はわずか3歳だった)。・・・
・・・1605年・・・6月、利長は隠居し、利常が家督を継いで第2代藩主となる。・・・
1614年・・・、大坂冬の陣では徳川方として参戦し・・・阿倍野に陣を布いた。前田軍の規模は徳川方の中でも最大の動員兵力で、2万以上はいたといわれる。前田軍は大坂方の真田信繁軍と対峙した(真田丸の戦い)。・・・家康は利常に攻撃命令を下さなかったが、家康と姻戚関係にある利常は功に焦り、・・・軍令に反して独断で真田丸に攻撃をかけ、井伊直孝や松平忠直らの軍勢と共に多数の死傷者を出して敗北した。
・・・1615年・・・の大坂夏の陣では、・・・家康から岡山口(四條畷市)の先鋒を命じられ、前田軍の後方には利常の舅で将軍である秀忠の軍勢が置かれた。5月7日正午、前田軍1万5000人は大坂方の大野治房軍4000人と戦い、苦戦しながらも勝利した。この時、前田軍は松平忠直軍に次いで3200の首級をあげ、・・・直参・家中213人が敵を討ち取り、首級は258、雑兵を含む首級の数は3000余・・・。前田軍の名のある戦死者は冬の陣では6名、夏の陣では34名であった・・・。・・・
1616年・・・、家康が死の床に就いた際、枕元に来た利常に対して「お点前を殺すようにたびたび将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず、何らの手も打たなかった。それゆえ我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」と述べたという・・・。・・・
その後、光高の正室に家光の養女・大姫(水戸徳川家の徳川頼房の娘)を迎えている。・・・
1642年・・・、四女の富姫が八条宮智忠親王妃となり、幕府に批判的な後水尾院とも深く親交した。ちなみに院の中宮・徳川和子は珠姫の妹に当たるため、利常と院は義兄弟(相婿)関係にあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8
⇒本題を離れますが、「注62」からも、大身の外様大名家であったにもかかわらず、前田家が幕末に存在感を発揮できなかった理由が分かるような・・。
鎌倉時代からのれっきとした歴史を有する島津家や毛利家(大江家)とは違って、前田家は、租の利家の父親の利春なる人物が「実在したかどうかは疑問」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E6%98%A5
という、豊臣家並みの成り上がりの家であったことから、プライドが相対的に低く、そのおかげで、島津家や毛利家に比べて、中央にはるかに近い場所に位置しつつも、ひたすら徳川本家の御機嫌取りに徹することで生き残ることこそできたものの、単にただ生き残るだけで終わってしまった、といったところでしょうか。(太田)
(続く)