太田述正コラム#12433(2021.12.7)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その34)>(2022.3.1公開)

 「家光は、新たな武家国家の構築に着手する。
 <1634>年の上洛を最後にした彼が盛んにおこなったのが、御三家以下の諸大名や旗本による大軍団を従えての日光社参である。
 同年閏7月に江戸に帰着した家光は、早くも同年9月に社参する。
 そして、家康21年忌のために、本堂・拝殿をはじめすべての建物を造り替えた。・・・
 以後、家光は<1636>年、<1640>年、<1642>年、・・・1748<年>の各4月(家康命日4月17日参拝のため)にも社参をおこなった。
 公武合体政権構想から、東照神君を祭神とする武家国家構想へ転換したのだ。
 ここで注目するべきは、伝統的な上方権威からの自立が試みられた点である。
 これを後押ししたブレインが・・・天海であった。・・・
 天皇を頂点とする伝統的な権威を克服するために、天海による東叡山寛永寺の創建と山王一実神道の発展によって、家康の神格化をめざしたのである。・・・

⇒またですかい、藤田さん、といったところですね。
 家光は、暴君であった(注66)こと一つとっても、将軍の器ではなかったにもかかわらず、祖父の家康のおかげで将軍になれたとされている人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
です。

 (注66)「家光は嫉妬深いうえに怒ると超こわ<く、男色の>・・・恋人<の>・・・小姓<が>・・・ほかの小姓にちょっかいをかけてしまった<時、>・・・その場で・・・斬り捨ててしま<いましたし、>・・・<もう一人の>小姓にメロメロで、いきなり2万5千石の大名にするなど・・・ひいきにしてい<たところ、当人が>・・・「病気になったので自宅で休みます」と言って家光のそばを離れてしまいます。・・・<ところが、>その後重澄に4人も子どもが誕生していたことが家光にバレてしま<い、>・・・「病気と言ってたのに元気じゃないか!」と怒った家光は、重澄の領地を没収してしま<った結果、その元小姓の大名>はショックで自らご飯を食べることをやめ、自害し・・・ています。」
https://diamond.jp/articles/-/277193

 (家光が、かつて両親の寵愛を一身に集めていた弟の忠長を、難癖をつけて所領没収の上蟄居させ、自刃させた
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4535
のも、家光の暴君性を顕すもう一つの例です。)
 家光の家康崇拝ぶりは、父母が増上寺に葬られているにもかかわらず、自分の墓所を遺言で日光の輪王寺に定めた
https://colorfl.net/tokugawaiemitsu-matome/
点に端的に顕れています。
 そんな家光が東照宮を造り替えたり参拝を繰り返したりしたのは、祖父家康コンという彼の個人的理由によるものでしかありますまい。
 寛永寺の創建だって、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を設けたいと願った天海に対し、秀忠が現在の上野公園の地を与えた1622年の時点で決まっていたことであり、しかも、家光が将軍の時ではあったけれど、秀忠の存命中の1625年に創建されたものであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E5%AF%BA
家光が実質的な関与をしたわけではありません。
 そういった話がかき集められて、藤田の手にかかると、「東照神君を祭神とする武家国家構想」に大化けしてしまうわけです。(太田)

 そのうえで、<家光は、>政権都市の江戸、学問都市の京都、経済都市の大坂という三都体制による、全国支配を試みたのである。

⇒三題噺じゃあるまいし、ここもコジツケです。(太田)

 以後において、幕府はそれまでの武力を背景に朝廷や諸大名を統制するいわゆる「武断政治」から「文治政治」へと大きく舵を切ってゆくことになる。」(204~205)

⇒「以後」は、「その時点を含み、それよりのちの意を表わす」のが原則です
https://www.weblio.jp/content/%E4%BB%A5%E5%BE%8C
から、藤田は、文治政治が家光から始まったと言っていることになるけれど、一般には「江戸幕府4代将軍徳川家綱から7代家継の時期の幕政の基調を文治政治といい、これに対して初代家康から3代家光までのそれを武断政治という」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E6%96%AD%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%83%BB%E6%96%87%E6%B2%BB%E6%94%BF%E6%B2%BB-1587742
ところ、藤田は、この「齟齬」について、何の説明もしてくれていません。(太田)

(続く)