太田述正コラム#12439(2021.12.10)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その37)>(2022.3.4公開)
「1644<年>12月、徳川家光は全国の大名に対して、国絵図・郷帳とともに城絵図の調進を命じた。
この正保城絵図<(注69)>は、城と城下町の実態を描いた絵図である。
(注69)「正保城絵図の大部分は慶応4年(明治元年/1868年)の江戸開城の際に新政府軍に接収され、その多くが行方不明になったとされている。江戸時代には城絵図は機密事項であった一方で軍学・兵学の興隆とともに築城・攻城の研究のために城絵図が作成されていた。その際には多くは一国一城令などで廃城になっていた中世の城郭のものが用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E7%B5%B5%E5%9B%B3
「東海道筋の城持ち大名は、さらに城の木製模型を作って提出するよう求められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%BF%9D%E9%83%B7%E5%B8%B3
そこには、城内の天守以下の建造物、石垣の高さ、塀の幅や水深などの軍事情報と、城下町の町割り、周辺の田や山川が詳細に記されている。
各藩は数年がかりで絵図を制作して提出し、幕府は江戸城内の紅葉山文庫<(注70)>に収蔵した。・・・
(注70)「江戸時代に幕府が江戸城内の紅葉山に設けていた文庫(現代における図書館)。・・・
将軍の利用を基本としたが、それだけでなく老中・若年寄はじめ幕府の諸奉行、学者、旗本、および一部の藩へも貸し出しを許可された(ただし書物奉行に申請する必要があった)。・・・
蔵書は、家康の命で蒐集・書写された書物を基礎として、幕府が御書物師(文庫出入りの書店)を介して購入した図書や献上された官撰書(『本朝通鑑』『寛永諸家系図伝』『徳川実紀』など)、また諸藩の大名や林家からの献上本などにより構成された。特に・・・1828年・・・には、豊後佐伯藩主・毛利高標が2万冊もの書籍を献上している・・・。
蔵書数は時期によって異なるが、幕末の元治年間に編纂された『元治増補御書籍目録』によれば11万3千950点で、うち65%が漢籍であったという。・・・
歴代の書物奉行には深見有隣、高橋景保、近藤重蔵、林復斎らの学者も名を連ねており、文庫の貸借・管理のみならず、蔵書の鑑定・蒐集・目録の編纂などを行っていた。
保守作業として、天候や湿度に注意しつつ蔵書や資料を日光や風にさらす曝書(虫干し)が、毎年晩夏から秋にかけての数か月間大規模に行われた。また、蔵書は本箱に収められて保管され、破損した書籍の補修もしばしば行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%BA%AB
なお、「青柳文庫は仙台藩藩校・養賢堂から分離独立した仙台医学館構内に1831年・・・に設置され、身分に関係なく閲覧・貸出がなされた。青柳文庫が日本初の公共図書館とすることには異論もある。近代的な欧米の図書館制度を日本に最初に紹介したのは福沢諭吉である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8
城絵図を通覧すると、・・・軍事機密をすべて描き、それを幕府が把握していたのである。
城下町については、武家地と町人地に分けて、詳細に指示している。
武家地においては、小路で区切られている街区を記して、小路の長さを間数で記すこと、町人地については、目小路で区切られている街区を記して、小路の長さを間数で記すこと、町人地については、目抜通町・脇町を明示し、町々の区別を記することである・・・。
このように、微に入り細にわたりデータを明示するよう命じている。・・・
正保の段階において、町・村・寺社・郡境・街道・航路をはじめとする一国全体の様々なデータを国絵図<(注71)>から、農村と年貢に関するデータは郷帳<(注72)>から、城郭と城下町のデータは城絵図から、幕府はほぼ正確に把握するに至ったのである。
(注71)「幕府の国絵図事業は4回行われているが、1回目の慶長国絵図は・・・1604年・・・から、主に西日本について作成された(その後、・・・1617年<~>・・・1638年・・・にかけ、数度の補遺を行っている)。正保国絵図は、2回目にあたり、全国68ヶ国についてすべて収集され、主に軍事と交通関連の情報が記載されているほか、縮尺も1/21600(1里6寸)に統一されるなど、実用性が意識されていた。
その後、・・・1697年・・・から開始された元禄国絵図では仕様の統一が図られ、・・・1835年・・・に開始され、唯一現存する天保国絵図では、幕府が主体となって編纂に当たっている。・・・
原本の大半と総図は、皇国地誌編纂中の1873年(明治6年)、皇城火災により消失したが、複製(国立歴史民俗博物館所蔵)が伝わっている。現存する国絵図は、羽後、出羽、秋田、仙北、出羽六郡、庄内三郡、新庄領、奥州南部十郡、南部領、山城、摂津、安芸、対馬、筑後、豊後。また、提出もととなった各地の大名家ゆかりの原本の原本や、写本が残されている例がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%BF%9D%E5%9B%BD%E7%B5%B5%E5%9B%B3
(注72)「郷帳は村単位の高を記すものだが、正保郷帳作成にあたり幕府は総計を各大名の表高に一致させるよう指示した。表高は大名が領地を与えられたときに記された石高で、実際の石高とは異なる。大名の実際の生産力を把握することよりも、表高で測られる大名の序列や格式の変更を嫌ったことになる。
作成単位は原則として国だが、蝦夷地、琉球、小豆島がそれぞれ一単位となり、陸奥国は7つに分割された。複数の大名がある国では、有力大名がとりまとめ役にされたり、複数大名が分担協同したりした。
幕府が保管していたものは大半失われたが、作成にあたった大名家に残ったものが国単位で残る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%BF%9D%E9%83%B7%E5%B8%B3 前掲
天下統一によって秀吉が理念的に収公した60余州に関する統治に関わるデータを、この段階になって、ようやく政権が側正確に掌握することができたのであった。
つまり、将軍家光の執政期になって預治思想が理念でとどまることなく、統治データの集積と管理を背景に実質化したとみられる。
すなわち、国家が統治に関わる統計を実施し本格的に管理する時代が到来したのである。」(212~214)
⇒「注72」からも分かるように、家光の時の正保の国絵図等の事業は、実用目的というよりは、幕府の威信を見せつけることに主眼があったように思われます。
本来は、「秀吉が理念的に収公した60余州」を現実に完全に収公し、日本を、古の例で言えば令制国家的な、後の例で言えば明治国家的な、中央集権国家化すべきであったところを、徳川幕府は、秀吉当時の収公の程度で凍結したまま、2世紀半にわたって、単に維持しただけの、思想もビジョンも持ち合わせていなかった政権だった、と言うべきでしょう。(太田)
(続く)