太田述正コラム#12445(2021.12.13)
<藤田達生『藩とは何か–「江戸の泰平」はいかに誕生したか』を読む(その40)>(2022.3.7公開)

 「杉山氏によると、八旗とは日本に当てはめれば親藩のみで構成された幕藩制という。・・・

⇒既に説明したように、「幕藩制」という捉え方自体が誤りなのですから、親藩もくそもありません。(太田)

 杉山氏は大清帝国と徳川幕府は統一戦のなかで形成された軍事行動を前提として組織を原型としており、これが伝統的統治権の継承により、自らを確立していったこと、主従制と官僚制という原理は相剋をはらみながら併存し、支配の安定と長期化のなかで融合していったと主張する。

⇒くどいようですが、清の方は結果として北東アジア大陸部・・その後、非大陸部中台湾を含む・・が統一されました、というだけで、「統一戦」など、そもそも存在しないのです。
 初期に女真族(満州族)の「統一戦」はありましたけどね。
 また、清において、「主従制と官僚制という原理」が「融合していった」事実もまたありません。
 「清は東北地方の女真が建国し、<支那>の大多数の漢民族を支配したが、直接清朝を倒したのではなく、明を倒した李自成の乱を平定して<支那>の支配者となったことを自らの正当性の根拠とした。そのため明朝の制度や統治機構は基本的に残し、科挙制度も継続した。しかし、宦官は明の弱体化の一因となったことを受けて、一時廃止するなど、積極的には継承せず、清は<支那>の王朝では宦官の害が比較的少なかった。また、軍事体制では、女真独自の八旗制を基本としていた。また各官庁の役人は満漢併用制をとって満漢同数とし、宮廷の正式文書も満州文字と漢字の両方を用いた。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0802-000.html
という、従前からの教科書的記述が、現在でも、依然として正しい、と私は考えています。
 まことに恐れ多いことながら、杉山説は、最近一世を風靡しているらしいところ、それは、藤田だけではなく、日本の日本史学者達が一般に日本以外の世界の歴史について余りにも不勉強であるために生じた珍現象なのではないでしょうか。(太田)

 一見、正反対の存在とみなされてきた大清帝国と江戸幕府は、実は双生児ともいうべき特徴を有していたと結論づける。・・・

⇒双生児なんて話は論外ですが、そもそも、両者は、正反対どころか、全く異質の存在です!(太田)

 倉地克直<(注80)>氏・・・のように、島原・天草一揆と寛永大飢饉、すなわち寛永年間を画期として、徳川幕府が「公共」機能を果たすようになったとみるのは一般的な見方となっている。・・・

 (注80)1949年~。京大文(国史)卒、同大院博士課程単位取得退学、岡山大講師、助教授、教授、名誉教授。「日本近世の文化史を専攻し、なかでも近世の民衆文化を研究している。岡山大学着任後は、岡山大学附属図書館が所蔵する池田家文庫の史料を活用し、江戸時代の岡山藩政史の研究にも取り組んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E5%9C%B0%E5%85%8B%E7%9B%B4

 しかし、なんの思想的な土俵もないところに仁政が叫ばれたのではなかった。
 すでに・・・1587<年>の豊臣法令にもその方向性は明確に打ち出されている。
 預治思想とは、信長や秀吉そして家康による天下統一の過程のなかで醸成され、高虎のような外様大名にまで浸透した幕藩体制を支える基本的な政治思想なのである。」(218、220~221)
 
⇒私は、これまで、預治思想とは、(令制国家時代の日本は中央集権国家であったところ、)中央集権国家志向思想のことらしい、という理解であったところ、どうやら、それは、仁政思想とセットだったようですね。
 しかし、重ね重ねまことに恐れ多いことながら、既に、「承久の乱から南北朝の内乱にかけて王権が動揺した一時期において・・・朝廷や幕府においても盛んに徳政が行われて仁政の推進が図られ<れ、>また支配階層の徳治とは別に集団の指導者として徳を高める必要性の認識が室町時代から江戸時代にかけて武士や人民にも見られるようにな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E6%B2%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9
ところですし、私見では、日本における仁政思想の成立は、少なくとも、「その治政において、3年の間、税を免除したという事績に基づ<き、>・・・第16代天皇と<される>大雀命(大鷦鷯尊)(おおさざきのみこと)<に、>・・・仁徳天皇という諡(おくりな)・・・をつけ・・・た・・・8世紀後半」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87-110874
へと更に遡る、と、私は考えているわけであり、中央集権国家志向思想にせよ、仁政思想にせよ、日本の日本史学者達が一般に「専門」の時代以外について余りにも不勉強であるために、昔から存在したという常識すら身についていない藤田のような学者がいるために、このような噴飯物の珍説が胸を張って唱えられる、ということではないでしょうか。(太田)

(完)