太田述正コラム#12450(2021.12.15)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その2)>(2022.3.9公開)

 「・・・<18世紀末から19世紀初にかけて、日本では>尊皇思想が高まりつつあった。
 本居宣長は『玉くしげ』<(注4)>のなかで、天下の政治は天皇の「御任(みよさし)」により将軍が行い、将軍はこれを各大名に分け預けるという「大政委任論」<(注5)(コラム#12317)>を説き、水戸藩の藤田幽谷は『正名論』で、幕府が天皇を尊べば諸大名が将軍を尊び、その家臣が大名を尊び、その家臣が大名を尊ぶ、これにより上下の秩序が保たれると説いた。

 (注4)「本居宣長の政治道徳論。玉匣とも書く。1冊。《秘本玉くしげ》(2巻2冊)とともに・・・1786年<に>・・・紀伊和歌山藩主徳川治貞(はるさだ)に贈られた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%8E%89%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%92-322164
 (注5)「・・・今の御代と申すは、まづ天照大御神の御はからひ、朝廷の御任によりて、東照神御祖命より御つぎつぎ、大將軍家の、天下の御政をば、敷行はせ給ふ御世にして、その御政を、又一國一郡と分て、御大名たち各これを預かり行ひたまふ御事なれば、其御領内御領内の民も、全く私の民にはあらず、國も私シの國にはあらず、天下の民は、みな當時これを、東照神御祖命御代々の大將軍家へ、天照大御神の預けさせ給へる御民なり、國も又天照大御神の預けさせたまへる御國なり、然ればかの、神御祖命の御定め、御代々の大將軍家の御掟は、すなはちこれ天照大御神の御定御掟なれば、殊に大切に思召シて、此ノ御定メ御掟テを、背か頽さじとよく守りたまひ、又其國々の政事は、天照大御神より、次第に預かりたまへる國政なれば、随分大切におぼしめして、はぐゝみ撫給ふべき事、御大名の肝要なれば、下々の事執行ふ人々にも、此旨をよく示しおき給ひて、心得違へなきやうに、常々御心を付らるべき御事なり、さて又上に申せるごとく、世ノ中のありさまは、萬事みな善惡の神の御所爲なれば、よくなるもあしくなるも、極意のところは、人力の及ぶことに非ず、神の御はからひのごとくにならでは、なりゆかぬ 物なれば、此根本のところをよく心得居給ひて、たとひ少々國のためにあしきこととても、有來りて改めがたからん事をば、俄にこれを除き改めんとはしたまふまじきなり、改めがたきを、強て急に直さんとすれば、神の御所爲に逆ひて、返て爲損ずる事もある物ぞかし、すべて世には、惡事凶事も、必ズまじらではえあらぬ 、神代の深き道理あることなれば、とにかくに、十分善事吉事ばかりの世ノ中になす事は、かなひがたきわざと知ルべし・・・」
https://www.norinagakinenkan.com/norinaga/shiryo/tamakushige1.html

⇒内藤は、藤田覚『近世政治史と天皇』に拠っている(7)ので、内藤の誤りということにしておきますが、宣長の玉くしげでの「御任」に係る所論は、「注5」を読めば分かるように、いわゆる大政委任論が天皇からの将軍への委任論であるのに対し、天照大神からの将軍への委任論・・王権神授論!・・と言ってよく、だからこそ、宣長は、「たとひ少々國のためにあしきこととても、・・・俄にこれを除き改めんとはしたまふまじきなり」と、将軍が統治している人々に、将軍がたとえ間違っていると思っても、それを神の意思として無条件に将軍の言うことに従え、と言い捨てているのですから、ここで内藤は宣長に言及すべきではなかったのです。
 もとより、これは宣長のタテマエ論であって、ホンネを書いた、だからこそ「秘本」であるところの、「秘本玉くしげ」、では、宣長は、一転、「富の不平等や年貢の苛酷さなどを批判」している
https://kotobank.jp/word/%E7%8E%89%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%92-322164 前掲
ところです。
 ただ、そのことを勘案しても、宣長の所論は、大政の委任先の変更や大政の奉還の契機を含んではいない、だから、内藤は言及すべきではなかった、と、やはり言わざるをえません。(太田)

 幕府でも老中松平定信が・・・1788<年>、将軍徳川家斉に差し出した「将軍家御心得十五箇条」のなかで大政委任論を述べている。<(注6)>

 (注6)「第二条に、「古人も天下ハ天下之天下、一人の天下ニあらすと申し候、まして六十余州は禁廷より御預りあそばされ候御事ニ御座候得は、かりそめにも御自身之物ニ思召(おぼしめす)ましき御事二御座候」。将軍は天皇から日本全国を預かったのであり、将軍一人のものでないと注意を促す。そのうえで、「将軍とならせられ天下を御治めあそばされ候ハ御職分に御座候」と、将軍という地位も「職分」(本分たる務め)だと強調し・・・た」(山内昌之「将軍の世紀」–「みよさし」と王政復古の間(2)本居宣長は松平定信に出会ったか」より)
https://bungeishunju.com/n/n7dc597e51653 ※

⇒「注6」を読めば、定信の所論の方は、(定信自身がそう自覚していたかどうかは別として、)大政の委任先の変更や大政の奉還の契機を含んでいる、れっきとした大政委任論である、と、言えるでしょう。
 なお、山内は、※の中で、「この・・・<定信の>三十一歳の<時の>・・・主張は、定信がまだ白河藩主にもなっていない天明元年、世子だった・・・二十四歳の・・・時に書いた統治の書『国本論』に原型がある。しかし、両者には微妙な違いもあった。「天は自ら民を治められないために、天子をして民を治めさせる。天子は自ら治められないために、諸侯を建てて民を治めさせる」。ここでいう「天子」とは天皇であるが、天が天子に民を治めよと命じたが、天子は諸侯を封建して民を治めさせたという意味になる。ここでは将軍が言及されておらず、その位置が曖昧である。素直に読むなら、諸侯(大名)の一員に将軍が含まれるとしか解釈の仕様がない。ところが「諸侯邦内を治るは則天子の命にして、是れ天の命ずる所なり」とあり、大名の領国支配は究極的に天子の上にある天の命令だと儒教の教えを正面から出している。天皇よりも天の意志が優先するといわんばかりなのだ。」(上掲)と書いているところ、山内自身はそうは考えていないようですが、私は、出版されていた『国体論』
https://ameblo.jp/mumumu127/entry-12257322808.html
を読んでいた宣長が、心ならずも避雷針目的で同趣旨のことを『玉くしげ』の中に記した、と見ています。
 (後に『有所不為斎雑録』第三集に所収された「将軍家御心得十五箇条」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A7%94%E4%BB%BB%E8%AB%96
は、事柄の性格上、機密文書である上、
http://www.kyuko.asia/book/b183532.html
『玉くしげ』執筆の時点ではまだ書かれていません。)(太田)

 大政委任論は、権威にかげりのみえはじめた将軍の威光を立て直し、かつ支配の正当性を保証するものであった。
 幕府からすれば、政務を委任した以上、朝廷は政治に口出ししないはずであった・・・」(7)

(続く)