太田述正コラム#12452(2021.12.16)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その3)>(2022.3.10公開)

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[藤田幽谷] 

 藤田幽谷が「幕府が天皇を尊べば諸大名が将軍を尊び、その家臣が大名を尊び、その家臣が大名を尊ぶ、これにより上下の秩序が保たれると説いた。」(上出)ことと、大政委任論とがいかなる関係があるのか、不思議に思って、少し調べてみた。↓

 結論的に申し上げれば、「幽谷<は、>・・・『正名論』<(注7)では>、天皇<と>幕府・・・の地位の合理性問題を回避した」(張陽「藤田幽谷『正名論』の捉え方 : 論旨における二重性格の構造」より)
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のであり、内藤は、大政委任論の話の中で幽谷の『正名論』に言及すべきではなかった、だ。

 (注7)「<支那>、戦国時代に盛行し、名実論ともいわれ、名称と実質との一致を志向する思想。政治思想的なものと論理学的なものとの二傾向があるが、前者が主流となっている。正名論の発端は、政治の急務は名を正すことにありとの孔子・・・の主張であるが(『論語』子路篇)、その具体的内容は、たとえば君臣父子がそれぞれ君臣父子らしくあれというもので(同上顔淵篇)、名称にふさわしい実質であればよい統治が行われるという考えである。こうした考えは『呂氏春秋』正名・審分(しんぶん)や『申子(しんし)』大体などの諸篇にもみえる。こうした政治論的正名論を積極的に取り入れて、名(職務)にふさわしい形・実(実績)を求めて君主が臣下を督責するという形名参同の政治思想を創案したのが法家である。政治論的正名論は『管子』心術、『荀子』正名、『韓非子』定法などの諸篇にもみえる。のち、とくに宋代以後、名分論として展開する。
 他方、名家の公孫竜などが孔子の正名思想を一般の事物に適用したのが、論理学的正名論ともいうべきものとなったと考えられる。『公孫竜子』には名実論もあるが、白馬論の白馬は馬ではないとか、堅白論の堅くて白い石は二つだといった主張に、その正名論の特徴が明白に現れている。白とは色、馬とは形に属するもので、馬とは形についていうものであるから、色プラス形の白馬は馬つまり形ではないと主張したり、堅い石と知るときは白い石は意識されず、白い石と意識されるときは堅い石は知覚されないとして、堅白石は一または三だとする説を退ける。これに対して白馬非馬については、墨家は、『墨子』小取(しょうしゅ)篇で、白馬に乗っても驪馬(りば)(黒馬)に乗っても、馬に乗ったというから白馬は馬だと純粋に論理的に反駁している。こうした名と実との論理的な議論は『荀子』正名篇にもみられるが、荀子はこうした議論には深入りせず、分析の精密さは認めるが、不要不急の議論だとして政治的、実用的立場から否定する。彼以後、論理学的正名論は晋の魯勝(ろしょう)などにみられるものの、おおむね収束して政治論的正名論が主流となる。・・・
 藤田幽谷<の『正名論』は、>時の老中松平定信に贈られたものという。1791年・・・稿。・・・
 宋の司馬光の《資治通鑑(しじつがん)》冒頭の正名論を下敷きとして,君臣上下の名分を正すことの重要性を強調しつつ,幕府が天皇を尊べば大名は幕府を尊び,大名が幕府を尊べば藩士は大名を敬い,結局上下秩序が保たれるようになるとして,尊王の重要性を説いている。・・・
 義は礼楽に属するとした徂徠学の見解が水戸学の基底にあったことを勘案すれば,・・・大義名分<の>・・・大義とは秩序が実現しうる究極の制度を意味する。名分という概念を正面から論じた藤田幽谷の《正名論》(1791)においても,こうした視点が一貫している・・・。この論では,日本に秩序が備わりうる根拠は天皇を中心にした臣下の別が,名として明確に存する点に求められる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E5%90%8D%E8%AB%96-546484

 この際、幽谷について、紹介しておく。↓

 ゆうこく(1774~1826年)は、「常陸国水戸城下の奈良屋町に、古着商藤田屋を営む藤田与右衛門の次男として生まれる。・・・幼少の頃から学問で頭角を現すようになり、寺社奉行下役の小川勘助や医師の青木侃斎に学ぶ。侃斎の推挙を受け、彰考館編修で後に総裁となる立原翠軒の門人となる。1788年・・・[15歳のとき]にはその推薦で彰考館に入る。1789年・・・には正式に館員となり、水戸藩の修史事業である『大日本史』の編纂に携わる。

⇒町人である古着屋の息子↑に、高度な学問を学ぶ機会が与えられ、ついには200石取りの武士になる↓のだから、それが例外的なことだったとしても、江戸時代の日本は結構風通しのよい社会だった、と、改めて思う。(太田)

 水戸藩では徳川光圀の百遠忌に向けて写本を献本するため『大日本史』の校訂と浄書を行っていたが、『大日本史』の題号に国号を憚るべきとする題号問題が発生していた(史館動揺)。
 翠軒が藩主治保からこの問題を諮問されている間に幽谷は翠軒を差し置いて題号を『史稿』に改めるべきであるとする意見書を提出し、翠軒の修史方針や藩主治保の修学態度、さらには藩政改革の提言や対外情勢への意見などを著作で発表し、一時は編修職を解任される。
 この史館動揺は党派的な対立に発展する。
 1807年・・・彰考館の総裁に就任、150石を受ける。 
 [<1808>年総裁兼務のまま郡奉行に転じたが,<1812>年に総裁専任に戻る。]
著作である『勧農或問』は[<、>藩財政の窮乏と農村の疲弊とが相互に因果をなす藩政の改革を唱道<、>]水戸藩天保の改革の農村対策に影響を与えた。
 1812年・・・再び総裁を専任。[本知200石に累進。]
 [晩年イギリス人の常陸(ひたち)大津浜上陸事件にあい、・・・対外的危機を受けとめて攘夷を主張し,攘夷実行の根底として天皇を頂点とする国家体制(国体)の確立を強調,さらに国内の制度改革のためにいっそう攘夷を鼓吹するという独特の尊王攘夷論を唱え[るなど、大義名分を強調し,尊王思想を鼓吹し,海防を論じ<、>]後期水戸学の創唱者となった。
 [<また、>経世に役だたぬ当時の儒学を批判し,儒学を実用の学に建て直そうと<した。>]
 [1802年家塾の青藍舎を開き,]門人に次男である藤田東湖、豊田天功、会沢正志斎らがおり、彼らは水戸学の尊王攘夷思想を全国に広める活動を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%B9%BD%E8%B0%B7
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%B9%BD%E8%B0%B7-124454 ([]内)

⇒藤田幽谷の思想家としてのオリジナリティは、(大政委任論に関しては回避したので、)尊皇攘夷を唱えたことにあるところ、更に言えば、「尊皇」部分にではなく、「攘夷」部分にあったと言えそうだ。
 次の次のオフ会「原稿」で、「尊皇」、「攘夷」について、掘り下げて論じたい。(太田)
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(続く)