太田述正コラム#12466(2021.12.23)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その6)>(2022.3.17公開)
「・・・1853<年>のペリー来航に際し、実萬は武家伝奏として、幕府と朝廷のあいだに立ってはたらく。
実萬は、江戸で・・・阿部正弘<(注13)>・・・老中と対面し、「叡慮[天皇の考えや気持ち]として、「誠に神州の一大事」であるので、いよいよ衆心堅固にして「国辱」や「後禍(こうか)」のなきようにとの意を伝えた。
(注13)1819~1857年。備後国福山藩の第7代藩主。1843年・・・、25歳で老中となり、幕府を動かすようになった。・・・老中在任のまま江戸で急死した。享年39。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%BC%98
「<この正弘の父は、>第5代藩主・阿部正精<(まさきよ。1775~1826年)で、>・・・老中を務め<、>・・・江戸駒込藩邸内に学問所を設置したり、民間救済機関で文化教育に取り組む「福府義倉」を援助し、朱子学者菅茶山に歴史書「福山志料」の編纂を命じているなど、文化政策に熱心であった。・・・
<なお、>江戸御府内<の範囲を示した、という話で知られている。>・・・
<その正精の>母<は、>津軽信寧の娘<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E7%B2%BE
津軽信寧<(のぶやす。1739~1784年)は、>・・・陸奥国弘前藩7代藩主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%BF%A1%E5%AF%A7
これに対し阿部は、叡慮を安んずる旨を繰り返し、さらに叡慮のほどを遠慮なく伝えてもらえれば、しかるべく取り計らうと答えている・・・。
阿部の回答は、歴史学者家近良樹<(注14)>が指摘するとおり、朝廷側に具体的な要求がないことを見越してのリップサービスであろう・・・。
(注14)1950年~。同志社大卒、同大院博士課程単位取得満期退学。中央大博士(文学)、大阪経済大講師、助教授を経て、教授。「幕末期の政治状況は従来の薩長と幕府との対立というだけでは説明できないとして、家近は「一会桑政権」と呼ばれる歴史概念を主張している。「一会桑」とはそれぞれ「一」=一橋慶喜、「会」=会津藩主・松平容保、「桑」=桑名藩主・松平定敬のことをさす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E8%BF%91%E8%89%AF%E6%A8%B9
だが朝廷はこの発言に驚喜し、活気づく。」(19)
⇒「リップサービス」ではなく、既に『大日本史』史観を朝廷も幕府も共有していたので、天皇の指示に将軍は従う、という当然のことを阿部が言明しただけでしょう。
従って、「朝廷<が>この発言に驚喜し、活気づく」こともまたなかったはずです。
実際問題、「驚喜」等の典拠を家近も内藤も示せないはずです。
付言しますが、現時点での私の仮説は、かかる認識を前提に、当時は、朝廷側と幕府側を通じ、『大日本史』史観の形式面・・天皇の指示に将軍は従う・・だけに従う人々、と、同史観の実質面・・秀吉流日蓮主義の完遂・・にも従う人々、の2派があり、このそれぞれの派に、天皇の指示が不当なものであった場合においても、出来る限りそれに従おうとする派と従おうとはしない派とがあった、というものです。
で、阿部正弘について言えば、彼の祖母の生家の(近衛家の「縁戚」である)津軽家の秀吉流日蓮主義に染まった父正精の影響を強く受けていた、と、私は見ているところです。
「家慶、家定の2代の<非日蓮主義>将軍の時代に幕政を統括した・・・正弘<が、>・・・1845年・・・から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせ<、>また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など大胆な人材登用を行<うと共に、>人材育成のため、・・・1853年・・・には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行った<り、>・・・<ペリー来航に伴う>国難を乗り切るため、・・・朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募った<りした>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%BC%98 前出
のは、彼が、秀吉流日蓮主義者であると考えれば全て説明ができます。
ところで、「1854年・・・、ペリーの再来により・・・、<正弘は、>日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる<が>、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる」(上掲)ところ、同じ、秀吉流日蓮主義者であったはずの斉昭が正弘に反対したのは、表見的には反対しなかった孝明天皇の真意を、皇族出身の正室、等から知りうる立場にあった斉昭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
が、同天皇の真意を代弁したのだろう、と、私は想像しています。(太田)
(続く)