太田述正コラム#12470(2021.12.25)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その8)>(2022.3.19公開)

「・・・1856<年>、米国総領事タウンゼント・ハリスが日本に着任し、翌年、江戸で通商条約の締結をもとめた頃より、徐々に事態は緊迫する。・・・
1858<年>正月、交渉がまとまると老中堀田正睦<(注16)>(まさよし)は、勅許を得たうえで調印する方針を取った。」(20)

(注16)1810~1864年。「下総国佐倉藩5代藩主。・・・正睦・・・は藩主としては蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開かせるなどしたことから「蘭癖」と呼ばれた。
・・・
知識のコレクションではなく体系的な<蘭学>を志向した結果として、幕末と明治に有為の人材を育成し<たところ、>・・・手塚律蔵を招いて日本で初めて「英語」の体系的な研究を始めさせたこともその一つであり、堀田-手塚人脈からは西周、神田孝平、津田仙、内田正雄、大築尚忠、三宅秀といった人物が輩出され、また佐倉藩人脈は安政年間の蝦夷地調査、明治の沼津兵学校教授陣など多方面に関わっていく。木戸孝允も一時期は手塚門下であった。・・・
1837年・・・に江戸城西の丸老中に任命され、加判に列した。11代将軍・徳川家斉没後の・・・1841年・・・に本丸老中に任命され、老中首座の水野忠邦が着手した天保の改革に参与する。・・・
忠邦の改革に対しては批判的で・・・1843年・・・4月の12代将軍・徳川家慶の日光参拝直後に病気と称して辞表を提出する。・・・
<彼は、>攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。・・・1855年・・・10月2日に安政の大地震が起こり、この地震で正篤は江戸上屋敷において負傷した。その1週間後の10月9日、当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られた。この時、外国掛老中を兼ねた。・・・
1858年・・・、・・・上洛して孝明天皇から・・・日米修好通商・・・条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、正睦は手ぶらで江戸へ戻ることとなった。
一方、同年、将軍・家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦は元々水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が14代将軍に相応しいと考えていた節がある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対に遭って勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋贔屓の朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では南紀派から一橋派に路線を変えた。
正睦が上洛中に松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、直弼は正睦を始めとする一橋派の排斥を始めた。・・・1858年・・・6月21日、正睦は松平忠固と共に登城停止処分にされた。6月23日には忠固と共に老中を罷免され、帝鑑間詰を命じられる。これにより正睦は政治生命を絶たれることになった。
・・・1859年・・・、正睦は・・・隠居し<たが、>・・・この隠居に関しては大老の直弼による強制的な隠居命令であり、この10日ほど前の8月27日に岩瀬忠震や永井尚忠ら一橋派が蟄居させられており、その連座処分だったとされる。ただし、直弼は時機を見ての正睦の再登用を検討していたとも言われており、安政の大獄においては他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受ける中で不問に付されている。
桜田門外の変後の・・・1862年・・・、正睦は朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされたが、これは直弼の安政の大獄に対する報復人事であった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%9D%A6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%9D%A6</a>

⇒正睦の祖先は、あの近衛家の「敵」の堀田正俊(コラム#12455)であり(注17)、また、正俊以来の堀田氏歴代の姻戚関係や墓所を調べても日蓮宗とは無縁であり、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%BF%8A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%BF%8A</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%AD%A6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%AD%A6</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%BA%AE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%BA%AE</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%99%82′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%99%82</a>
正睦の日蓮主義は、突然変異かと一旦は思ったのですが、堀田氏が佐倉藩主に定着したのは、正睦の祖父の正亮の時である
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E8%97%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E8%97%A9</a>
ところ、現在の佐倉市に、日蓮宗寺院が15もある
<a href=’https://www.pref.chiba.lg.jp/gakuji/shuukyou/houjin/sakura.html’>https://www.pref.chiba.lg.jp/gakuji/shuukyou/houjin/sakura.html</a>
ことを発見しました。

(注17)正俊-正武-正亮-正時-正睦

もとより、仏教寺院が86あるうちの15ですから、17%強でしかないと言えばその通りなのですが、一番多い真言宗の寺院が38で、日蓮宗はそれに次ぐ二番目の勢力です(上掲)から、(佐倉藩領内全体でどうだったかまでは調べていませんが、)、歴代佐倉藩主達は日蓮宗の教義に通暁していたと思われ、佐倉藩領が水戸藩領に接していたか近傍だったこともあり、佐倉藩主は、「初代の」正亮の時から、とまではいかなくても、少なくとも正睦が日蓮主義者になって少しも不思議ではない、と思います。
この正睦、孝明天皇や徳川斉昭の攘夷論、とりわけ日蓮主義者である斉昭の攘夷論、には、さぞ呆れたことでしょうね。(太田)

(続く)