太田述正コラム#1513(2006.11.17)
<渡辺京二「逝きし世の面影」を読んで(その6)>

<性>
 娯楽に関して、子供と大人の間に境界線が引けないだけでなく、欧米においては、大人の隠微な世界に属する「性」が、堂々と・・しかも子供にまで・・開陳されているのも江戸時代の日本人の「民族的特性」の一つですが、これも現代の日本にそのまま受け継がれています。
 子供がTVで見るアニメ番組の中に、猥雑なもの、エロチックなものが少なからずある国、週刊誌やスポーツ新聞で、硬派の記事とエロ記事やヌード写真が同居しているものが少なくない国、更にはこのような週刊誌のどぎつい広告を電車の中で目にすることができる国、は世界広しと言えども日本くらいであることは、海外経験のある方ならお気づきでしょう。
 昨年、『週刊新潮』2005.07.20号の、「母親と弟が、熱心な<創価>学会員である<AV女優由美香>・・二人は由美香の職業を理解し、97年公開のドキュメンタリー形式アダルト映画「由美香」にも出演している。AV業界関係者によると、学会にはAV関係者が多く、学会にはAVを表現活動として認める環境がある、とのこと。AV監督や女優が、自分のビデオを学会の集会に持ち込み、みんなで鑑賞することも。」という記事(
http://01.members.goo.ne.jp/home/giko33/diary/200507.html
。11月17日アクセス)を医者の待合室で読んで目を丸くしましたが、後で冷静になってから、日本では大いにありうることだ、と自分に言い聞かせた記憶があります。

 さて、残ったのは、夫婦関係、親子関係、宗教意識、の三つですが、前に掲げた引用文ををお読みになれば、いずれについても、江戸時代の「民族的特性」が現代日本にも受け継がれていることは、お分かりいただけることと思います。
 ここでは、欧州人の証言とアングロサクソンの証言を区分けすることの重要性について、皆さんに更に理解を深めていただくため、これら証言に私のコメントを付けていきましょう。

<夫婦関係>
 プロシャ人のヴェルナーが、日本の「夫婦が愛しあっている様子を一度も見たことがない。・・日本女性は言葉の高貴な意味における愛をまったく知らない」というのは、欧州的なイデオロギーとしてのキリスト教的夫婦観に禍されて目が曇っているのです。
 ちなみに、欧州における伝統的な結婚観は、家と家との結びつきです(コラム#88)。
 それに対し、英国人の夫婦観は、日本の江戸時代の夫婦観ないしそれを引き継いだ現代日本の夫婦観と似通っていて、まことに功利的なものである(コラム#88)だけに、来日英国人達の証言は的確です。
 ジャパノロジストのチェンバレンは、日本では家庭内において、一般に妻が夫より優位にあることを見抜いたのであり、駐日公使夫人のメアリ・フレイザーは、英国の夫婦より日本の夫婦の方が、互いにより強い「愛情」で結ばれていることを見抜いたのです。
 なお、フレイザーがこの所見を日本の女性に話したところ、その女性から、それは「愛情」ではなく「義務感」だと反論されています(379頁)。
 男性たる個人と女性たる個人が功利的に計算して結婚し、その後に愛情が育まれる、個人主義の英国の夫婦(コラム#88)とは違って、人間(じんかん)主義の日本(コラム#113??114)においては、男性たる個人と女性たる個人が、互いに手を携えて家を形成するという観点から功利的に計算して結婚という長期的人間関係を取り結び、その後は、自分はこの家の「主」構成員であるとの自覚と、その家は社会の重要な構成要素であるとの自覚に基づき、夫婦は相互の義務感で結ばれ続けるのです。
 これは、次の親子関係とも共通する重要なポイントです。

<親子関係>
 英国の旅行家イザベラ・バードが、日本人は自分の子供に体罰を加えたりしないし、また、日本人は自分の子供に対して真の「情愛」を持っている、と感じたのは、英国では、子供はペットであり、だからこそ厳しく子供を調教するけれど、子供はペットとしての用をなさなくなったら遠慮なく棄てるべき存在であった(コラム#89)からです。
 ここでも、バードが「情愛」と感じたのはちょっと違うのであって、日本人にとって、子供は社会の重要な構成要素であるところの家の「従」構成員であるがゆえに、親は社会から子供を付託されたとの義務感を持って自分の子供を育むのです。

(続く)