太田述正コラム#12484(2022.1.1)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その15)>(2022.3.26公開)
「8月7日、九条<関白>をのぞく近衛・鷹司・一条・実萬および議奏・武家伝奏が参内し、方策を協議した。
幕府を介さず直接藩に勅書を下すのは例がなかったが、近衛左大臣からの言上を天皇は嘉納・・・し、譲位を取り下げた。
こうして8月8日、「戊午の密勅」とよばれる勅書が水戸藩に、ついで幕府に下された。
一連の「密勅」計策をめぐり実萬は、中心的な役割を果たした。
これに対し、幕府をはばかり、朝議への参加を避けた九条は、「悪謀の発頭(ほっとう)」は実萬であり、「少しも油断致すまじく」・・・と、井伊に警告した。
⇒少なくとも日本の当時であれば、政治とは、外交のみならず内政においても軍事力と表裏一体の関係にあった(典拠省略)のであり、いくら実萬が諸武家と縁戚で、これら諸家と情報交換ができたとしても、実萬なんてこれら諸武家の全部はもちろん一つの武家の軍事力さえ行使することなどできなかったのですから、島津家と一体化していて、島津家の軍事力を(少なくとも潜在的には)行使できた忠煕を差し置いて、朝廷で実萬が「中心的な役割を果たした」だの「悪謀の発頭」だのはありえないでしょう。
九条尚忠がそんなことすら分かっていなかったとすれば、度し難いバカとしか形容のしようがありませんが、さすがにそうではなく、次のオフ会「講演」原稿で明らかにする予定ですが、近衛家の別動隊である鷹司家との関係が当時深まっていたこともあり、藤原家筆頭の近衛家を完全に敵に回すことだけは避けた、といったあたりではないでしょうか。(太田)
<1858年>9月7日の梅田雲浜(うんびん)の逮捕を皮切りに、水戸藩とそれに連なる関係者の謙虚に踏み切った。
安政の大獄のはじまりである。
⇒この時から先は、直弼をかばう余地はありません。
幕府内クーデタの結果を追認した上、正面から天皇の命令に背く反逆行為を開始した、ということだからです。
どうして反逆行為であるかというと、繰り返しになるけれど、幕府(と朝廷)が、『大日本史』史観を受け入れ、天皇が日本の最高権力者であることを認めていたにもかかわらず、天皇の命令に背いたからです。(太田)
朝廷内の形成は逆転し、10月13日、近衛左大臣・鷹司右大臣・一条内大臣、実萬前内大臣は、外国事件の朝議に参与することを辞し、九条関白は息を吹き返した。
12月に入ると青蓮院宮・有栖川宮・鷹司・近衛・一条・三条・久我各家の家臣に検挙が及んだ。
三条家では家士の森寺常安<(注26)>・常邦(つねくに)父子や、富田織部<(前出)>など6人に出頭の命令が下り、順次逮捕された。
(注26)1792~1868年。「地下人。・・・三条家に仕え、・・・1814年・・・諸大夫となる。官職では出羽介、大隅守、長門守、雅楽権助を歴任。・・・1852年・・・因幡守に任ぜられ、・・・1853年・・・従四位下となっている。
ペリー来航後は主家のために奔走し、・・・1858年三条実<萬>に橋本左内を斡旋し、入説を助けた。そのために子の常邦とともに安政の大獄に連座。・・・1859年・・・江戸に送られて、永押込刑となった。・・・1862年・・・赦免され、・・・1865年・・・従四位上となった。死後、贈正四位。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%AF%BA%E5%B8%B8%E5%AE%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%AF%BA%E5%B8%B8%E5%AE%89</a>
危機を感じた実萬は同月下旬、京都をはなれ、領地の上津屋(こうづや)村(京都府城陽市)・・・<、次いで>一乗寺村(京都市左京区)<、>・・・に退去した。
実萬の罪状は、水戸・福井両藩士や浪人たちと接触し、幕府の処置に入説したこと、「戊午の密勅」に関与したことであった・・・。
<1859年>正月10日、近衛左大臣・鷹司右大臣は辞官・落飾を、すでに官を辞していた実萬と鷹司太閤は落飾をそれぞれ奏請した。
これに対し天皇は、・・・<彼ら>をかば<いつつ、>その後も・・・幕府の強要をかわしつづけ<た。>・・・
3月になると・・・天皇も幕府の圧力に抗しきれず、4月22日、ついに実萬の落飾謹慎が決まった。」(28~30)
⇒近衛忠煕と薩摩藩内の(私の言う)島津斉彬コンセンサス信奉者達の目論見通り、彼らの仕掛けたワナに井伊直弼が見事にはまってしまい、天皇に対する反逆行為を行った結果、倒幕の機運が日本全国で加速度的に高まっていく状況がもたらされたところで、孝明天皇は腰砕けになってしまうわけです。
これは、孝明天皇が、家康がそれらを概成したところの、徳川幕府の「鎖国」等の対外基本諸政策に心理的にコミットしていたことから攘夷を叫んでいただけで、幕府との対決など本来望んではいなかったからであり、同天皇が腰砕けになることもまた、忠煕らの読み筋通りだった、と私は見ているところです。(太田)
(続く)