太田述正コラム#1519(2006.11.20)
<渡辺京二「逝きし世の面影」を読んで(その7)>

<宗教意識>
 英国の詩人アーノルドの証言、「宗教と楽しみは日本では手をたずさえている。・・彼らは熱烈な信仰からは遠い(undivotional)国民である。しかしだからといって非宗教的(irreligious)であるのではない」は、的確な観察であるのに対し、ロシア正教日本大主教であるニコライのように、この証言の前段の現象にだけ注目し、日本の庶民は、聖者崇拝や巡礼といった俗信の虜であったロシアの庶民(注3)同様、宗教心に篤いと考えた(545頁)のは、両者の表見的な類似性に惑わされた誤解です。

 (注3)これは欧州の外縁に位置するロシアの庶民だけでなく、正真正銘の欧州のカトリック信者たる庶民の宗教意識でもあった。聖母マリア信仰や、奇跡の泉等への巡礼を思い起こして欲しい。他方、欧州のプロテスタンティズムとは、誤解を恐れず露骨に単純化して言えば、このような庶民達から金を巻き上げて権勢をふるうカトリック教会に対する反発に由来する反キリスト教的無神論である、と私は考えている。
 
 ちなみに、英国人のオールコックは、「仏教寺院に入ると・・ローマの聖ペテロ寺院で、大切な祭日に、・・ひどい騒音を立てて・・子どもや犬に交って、寺院に祀られている神にも全く敬意を示さず、出たり入ったりしているのを見たこと<を思い出す。>」(546??547頁)とニコライとは正反対のことを言っていますが、こちらは、既視感によって英国人特有の反カトリック感情(コラム#172、181、183)を呼び覚まされたことによる誤解なのです。
 オールコックはともかくとして、どうしてアーノルドは的確な観察ができたのでしょうか。
 以前(コラム#461で)、スイス/ドイツの神学者のカール・バルト(Karl Barth。1886??1968年)が、原罪を否定し、禁欲的な生活と信徒間の平等を旨としたケルト人僧ペラギウス(Pelagius。354???418?年)の、「信仰は精神的であると同時に実際的でなければならないという主張<等>は英国におけるキリスト教徒の顕著な特質であり続けている。英国人の想像力は自然に根ざすものであり、そのことは英国人が秀でているところの田園詩と風景画に接すればよくわかる。まこと、英国人の造園へのこだわりの起源はケルト性にあるのだ。ブリテン諸島への訪問者は、定期的に日曜日に教会に行く人の少なさに衝撃を受ける。しかし英国人にとっては、信仰の最大のあかしは、教会に行くとか行かないとかいった宗教的勤行・・にではなく、隣人達、そしてペット、家畜や植物に対する日常的なふるまいにこそあるのだ。」という言葉をご紹介したことがあります。
 渡辺は、江戸時代の文明は、情愛を基本的な気分とするものであり、乞食に情をそそぎ、精神薄弱者にも生きる空間を与え、旅人の中に病人や事情のありそうな者がいると、必ず誰かが面倒を見、この情愛は、牛馬・鶏から犬・猫のたぐいに至るまで及ぼされた、と指摘しています(コラム#1476)。また、1876年に来日した、フランスの美術愛好家のエミール・ギメ(Emile Guimet。1836??1918年)は、「日本人は何と自然を熱愛しているのだろう。何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎しやかな物質的満足感に満ちた生活を何と上手に組み立てることを知っているのだろう」(450頁)と証言しています。
 このように、英国人と日本人の自然観・動物観・人間観、には著しい類似性があるのであって、英国人と日本人の宗教意識は、かかる自然観・動物観・人間観に根ざしたものであるゆえに、やはり著しい類似性があるのです。
 アーノルドが的確な観察ができたのはあたりまえです。彼は、日本人の中に、自分自身の宗教感情と極めて類似したundivotionalだけれどirreligiousでない宗教感情を見出したのですから・・。

(続く)